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【第13回】サダム・フセインの世界史的意義

はじめに

イラクのサダム・フセイン元大統領が、2003年12月14日、米軍によって拘束された。今後、民族的英雄の地位に上らせないためにも、米国メディアに よるフセインを戯画化する報道がなされ、最終的にはフセインの口封じが試みられるであろうが、数々の悪行にもかかわらず、フセインが世界史ではたしたプラ スの功績をフセインの墓碑銘の積もりで書いておきたい。

バース党

1947年、シリアのダマスカスでアラブ・バース党結党大会が開催された。バースとはアラビア語で「復興」、「再生」を意味し、バース党は、アラブの統 一、外国支配からの解放、社会主義を3大原則とするアラブ民族主義政党を目指したものであった。1952年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・ バース社会主義党となる。
バース党がアラブ世界で広範な支持を得た最大の要因は、「アラブ統一」に至るその戦略である。バース主義は、アラブに複数の国があるという現実を受け入 れた上で、各国にバース党を設立し、各々が政権を取った後、各バース党政権が合体してアラブ統一国家を形成するという明確な道筋を示した。それゆえ、バー ス党指導部は、アラブ世界全体を対象とする民族指導部と、個別国を対象とする地域指導部に分かれ、創設者、ミシェル・アフラクらの民族指導部はシリアに置 かれ、地域指導部はシリアからイラク、ヨルダン、レバノン、イエメン、バハレーンなどに拡大して行った。
しかし、1950年代後半から各国の地域指導部は民族指導部から離れ、それぞれの国における権力の奪取や維持を最優先するようになった。シリアでは、 1954年、バース党が政権を握るようになり、その後、クーデターが相次いで生起し、権力も目まぐるしく交替したが、1966年の軍事クーデターにより再 度バース党政権が誕生した。しかし、この時には、アラブ統一よりも社会主義建設が優先され、ミシェル・アフラクら民族指導部のメンバーは1966年に国外 追放となった。ミシェル・アフラクは、亡命先のイラクでバース党民族指導部を再建し、1989年に死去した。
1970年にシリアではアサド国防相による2度目の軍事クーデターがあり、1971年、アサドは、バース党シリア地域指導部書記長および大統領に就任した。2000年、息子のバッシャール・アサドが両ポストに就任した。

イラク石油をめぐるサダム・フセインとCIA

1958年に「7月革命」で王政を倒したカセム政権は、米国との軍事・経済援助協定を破棄し、石油の国有化方針を押し進めていた。それまでの「イラク石油会社」は、英米資本の支配下にあった。
1960年9月10日、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラ旧産油国政府代表がバクダッドに集まって、 OPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries、石油輸出国機構)が結成された。これは、国際石油資本の一方的値下げに対抗するための国際価格カルテルであった。バクダッドで結成会 議が開かれたことからも分かるように、リーダーシップを取っていたのは、イラクのカセムであった。
そして、英国は1961年にクウェートを独立させるが、イラクばかりか、やはり隣国のサウジアラビアとの国境さえ画定しないままの独立宣言だった。イラ クは直ちに抗議し、英国は出兵した。オスマン・トルコ支配下では、クウェートはイラクと同じバスラ州に属していた。しかし、イラクの強大化を恐れた英国が イラクからクウェートをもぎ取り、強引に独立させてしまったのである。クウェート政府は、独立直後から国連加盟を求めていたが、加盟が承認されたのは 1963年の後半になってからであった。この年の2月に、クウェートの独立に反対していたイラクのカセム首相が軍事クーデターで殺害された。カセム政権は 民族政権的色彩をもっていた。クーデターを成功させた陸軍将校グループは、「イラク革命全国評議会」を樹立して政権を握った。当然、カセム政権を倒した新 たな軍事政権を米英両国はただちに承認した。クーデター成功後わずか2週間後にイラク石油と新政権との石油交渉が始まった。
イラクでは1951年にバース党の地域指導部が成立し、バクル書記長とサダム・フセイン副書記長の体制で党勢の強化が進み、1968年軍事クーデターに よりバクルが大統領に就任した。1979年、副大統領であったフセインがバクルを引退に追い込み、大統領となるとともに、イラクの最高意思決定機関である バース党イラク地域指導部(RC)および革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
米国による第2次イラク侵攻前の時点(2003年3月)では、バース党はシリアとイラクだけのものになってしまった。ヨルダン地域指導部は、他の政党と 合併して「ヨルダン民族民主戦線」という政党になっている。レバノン地域指導部は、シリア系とイラク系に分裂した。イエメンでも同様に、イエメン地域指導 部からイラク系のバース民族党が分離した。GCC諸国およびチュニジアでは、非合法となっている(松本弘;http://www.jiia.or.jp /report/keyword/key_0304_matsumoto.html)。
しかし、クーデター直後に発行されたフランスの週刊誌『レクスプレス』(L'express)1963年2月 21日号が、このクーデター計画にはCIAと英国の関与があると報じた。同誌によれば、クーデター・グループは、CIAからの援助を受ける代償として、共 産主義者と民族主義者の根絶、米英の石油利権の擁護、クウェートの併合要求撤回などを約束していたという。
結果的には、OPECの結成と石油国有化方針が、カセムの命取りであった。カセム打倒のCIA支援によるクーデターは、OPEC潰しでもあった。事実、OPECは結成後も、1970年までほとんど成果を挙げることができなかったのである。

メジャーの敵=サダム・フセイン

しかし、1968年に、イラクでバース党の巻き返しクーデターが成功し、アル・バクル=サダム・フセイン政権が樹立された。翌、1969年には、リビアで カダフィが傀儡王政を倒した。リビアは1960年代から石油の産出を始め、この時期には世界最大の石油輸出国となっていた。リビアも当然、OPECの主要 メンバーとなった。
1971年のOPEC総会は、外国資本の石油会社に対する51%資本参加要求を決議し、翌1972年、イラクは先頭を切って石油国有化に踏み切った。し かし、メジャーの不買同盟により販路を断たれて困窮した。政権ナンバー2のサダム・フセインは国家計画委員会の議長などの立場で、これらの国家計画の先頭 に立っていた。世界第5位の埋蔵量を持つルメイラ油田の開発は、サダムの指揮下でソ連の協力により、イラク人技術者を養成しながら成功を収めたものであ る。
OPECの資本参加要求は、その後100%に発展する。販路への進出にも努力が払われた。このようなOPECと国際石油資本との熾烈な戦いの中心にはつ ねにサダム・フセインがいた。イラクとサダム・フセインは、イラン・イラク戦争という特殊な時期を除けば、西側のメジャーにとって最も憎むべき宿敵に他な らなかった。だから、イラン・イラク戦争が終わってしまえば、ただちに、始末される運命にあったのである。

おわりに

OPECの主要メンバーとしてヤマニ石油相に大活躍をさせ、アラブ諸国寄りの姿勢を強めていたサウジアラビアのファイサル王が、1975年3月に暗殺され た。その場で捕えられた犯人は王の甥であったが、犯人の兄ハリドが王位を継承し、犯人である弟は公開の場で処刑された。ソ連は「メジャーの背後のアメリカ 帝国主義」の陰謀を示唆し、米国側は「リビアもしくはパレスチナ急進派」の陰謀とした。いずれにせよ、周知のように、ハリド王以後のサウジアラビアは、急 速に米国寄りになった(村上愛二、電網木村書店Web『湾岸報道に偽りあり』;http://www.jca.apc.org/~altmedka /gulfw-01.html)。
1978年の米国とエジプトとの「キャンプデービット合意」は、アラブに亀裂を生じさせた。この合意に基づいて、単独でイスラエルと平和条約を結んだエ ジプトのサダト大統領を「アラブに対する裏切り者」として糾弾し、アラブ連盟からの追放運動で先頭に立ったのが、他ならぬサダムであった。その後、サダト はイスラム原理主義者によって暗殺された。ムバラク大統領が政権を握ったエジプトは、サダムがイランと戦っている間に、シリアのアサド大統領らの取り持ち でアラブ連盟復帰を果たした。湾岸戦争でエジプトがイラクの敵側に回った遠因は、このことが原因となっているのかも知れない。「キャンプデービット合意」 を侮辱したサダムは、パックス・アメリカーナへの許されざる反逆者であった。そのサダムが1979年にイラク大統領になったのである。結末はご覧の通りで ある。


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