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3.【インドネシア】ポスト権威主義体制下・民主化インドネシアの労働運動と労使関係

水野 広祐(京都大学東南アジア研究所 教授)

インドネシアの労使関係は全く様変わりした。1970年代から1998年4月まで、パンチャシラ労使関係の名のもと、政府の強いコントロール下にあって、実質上一つの労働組合連合組織・全インドネシア労働組合(SPSI)しかしか存在しなかった。しかし、2008年1月現在、90の全国連合組織、3つの総連合組織が存在し、単組の数も1万1000を上回る。

20世紀後半、東アジアで一般的に見られた権威主義的開発体制のもとでは、政府による労使関係への介入が特徴とされていた。インドネシアはいわばその典型であり、その体制は排他的コーポラティズムと呼ばれた。そこでは、ストライキは事実上禁止され、労使紛争処理への軍の関与の道が開かれていた。 これに対し、1998年5月に始まるハビビ政権によって、結社の自由および団結権の保護に関するILO87号条約が国内法化される。2000年労働組合に関する法律21号、2003年労働問題に関する法律13号、さらに2004年労使紛争処理に関する法律2号が制定された。これらにより、組合結成手続きの大幅簡素化、それまでの民間企業における解雇許可制度の廃止、旧来の労働力省職員を長とする行政組織であった労使紛争調停機関の廃止と、労使推薦判事と裁判所の判事よりなる労使関係裁判所の創設、などが規定されたのであった。

労働組織の族生、離合・集散
この結果、労働組織と労使関係に大きな変化が生じることとなった。まず、労働組織の族生である。スハルト期に唯一認められていた全インドネシア労働組合から1999年に改革全インドネシア労働組合(SPSI Reformasi)が分裂し、全インドシア労働組合傘下の23産別組織のうち当初13がこの分裂に同調したのであった。しかし、このうち6つは改革全インドネシア労働組合から脱退した。うち4つは、スハルト退陣後の通貨危機・金融界再編の中で生まれ、金融界に強いインドネシア労働組合協会(ASPEK Indonesia)や、スハルト期は学校教員の御用組織でスハルト退陣後教員待遇改善闘争に決起したインドネシア共和国教員同盟(PGRI)などと共に2001年にインドネシア労働組合会議(KSBI)を結成する。

また、スハルト期に労組結成を図りながら成功せずNGOとして存続を図り、そのリーダーパクパハン(Pachpahan)が牢獄にとらえられていたインドネシア福祉労組(SBSI)は総連合組織に発展した。しかし、パクパハンの公金不正受領問題から「1992年SBSI結成精神に帰ろう運動(SBSI)」が分裂した。スハルト期にNGOとの連携のもと、学習会形式で労働者の組織化をはかりスハルト退陣後に組合として名乗りを上げた組織には独立労働組合連合(GSBI―NGO/SISBIKUMに連携)など、NGOごとに多数の組織がある。また、イスラーム革新運動のなかで、スカルノ期から存在した組織とは一線を画して生まれたインドネシアムスリム労働者友愛会(PPMI)など、社会の多様性や、運動の経緯を反映してきわめて多くの組織が存在することになった。さらに、企業レベルでも新たな単組の結成が相次ぎ、一企業に複数の労組が存在することも希ではなくなった。

労働組織の多様性から見えてくもの
このような多数の組織の発生・離合・集散からインドネシア労働現場のいろいろな特徴が浮かんでくる。まず、労働者が団結する必然性の存在である。縫製・運動靴などの労働集約産業では、最低賃金の引き上げがもっとも重要な賃金引き上げの要因になっている。年齢や経験による賃金差がほとんどない一方、物価上昇を後追いする最低賃金の引き上げ率は高くこれによって労働者賃金が上昇する。地域別の最低賃金をどのように実施するのか労使交渉の余地は大きい。このような状況下では、労働者は組合に団結することによって自らの賃上げを勝ち取ることが可能になる。

一方、労働者組織の絶えざる新規発足、離合・集散の背景には、多くの中央組織の活家が単組の出身ではなくNGOなど労働者支援組織の出身であり、また単組との結びつきも実は強くないという事実がある。スハルト期からの全インドネシア労働組合の流れをうまく引き継ぐ組織はその時代からのチェックオフ制度を維持しているが、新たに生まれた組織は組合費の自主納入に頼る場合がほとんどである。また組合費の徴収システムを持たない組織も存在する。単組から上部組織への組合費納入の流れは大変少なく、上部組織も、個人的なネットワーク(国際組織を含む)を通じた資金確保に依存する場合も多い。

ただし、労働組織は無限の離合・集散を繰り返しているわけでもない。一つの要因は公的制度との関係である。最低賃金を審議する各地の賃金評議会や、労使関係裁判所の判事の推薦など、労働組合中央組織や地方組織として規模の優位が生きる場合がある。さらに、民主化したインドネシアの国会における労働法審議の過程では、たとえば労使紛争処理法案策定時のように、国会の小委員会に労働者代表が参加した。その際、当時60を越える中央労働者組織が、全インドネシア労働組合総連合、改革全インドネシア労働組合、インドネシア労働組合会議、そしてインドネシア福祉労組総連合とその他のグループに分けられて代表の選出は各々のグループに任された、という経緯があった。今日、労働者社会保障制度の改善に際しても、労働者組織は中央で活発な活動をしており、そのさいこのような連合組織は意味を増す。

会社における様々な問題、従業員の不平・不満解決の窓口として今日のインドネシアではあふれる情熱が不断の組合結成や闘争のためのエネルギーとなる。一方、地方の、また中央の様々な人々による交渉、組織化、分裂、離合の動き。これらが時に一本の筋となって機能するとき大変なパワーを発揮する。たとえば、2003年労働力法が規定する解雇一時金について世銀や外資企業の強い要求を背景にした2006年の政府による改正案(解雇一時金の減額案)は、全国の大都市における大規模なデモなどの組織的行動にあい、政府もその国会通過を断念せざるを得なかった。労働者組織は、民主化インドネシアにおいて相互のチェック機能をもつ多様なステークホールダーに徐々になりつつある。

ただし、多くの組織問題が存在する。日常的な組合員の思いと、単組、地方組織、中央組織の活動家の思いを符号させるメカニズムが弱い。組合の会計報告書や活動報告書が作成されない。ストライキの際の賃金支払いが当然とされている慣行のゆえ、組合財政強化のインセンティブが弱い。ニュースレターなどがない。ましてや特定政党との関係はほとんど成立しない。今のところ、多くの組合や組合員の存在は、総選挙や地方自治体の選挙の際にはほとんど影響を持たない。

マクロ経済の安定を重んじ、小さな政府に傾斜する今日のインドネシア政府は、労働者社会保険の充実化と引き替えにした最低賃金引き上げの抑制を目指す。しかし、労働者社会保険の充実化も進まなければ、最低賃金引き上げ抑制も効果を発揮しているとは言い難い。新自由主義政策が推進されるインドネシアにおいて、労使関係への政府の介入は一層抑制されている。一方、法の支配は進まない。組合は今や、軍ではなくやくざとの戦いに備えなければならない。有期雇用やアウトソーシングを規制したはずの2003年労働力法は、実際はその企業による利用を一層促進した。組合や組合指導者を敵視する経営者は依然として多く、これに対して旧来からの山猫スト戦術を用いるケースはありふれている。

これらもろもろの弱点を補うのが、組合員の、そして活動家のあふれる思いであり、問題点はあれ民主的な法制度である。このような状況下で今日のインドネシア労働運動は発展を続けているのである。

 『Int'lecowk―国際経済労働研究』 2010年5・6月号(通巻1000号)掲載 

 


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