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18:世界の労働運動-総括と展望<1/4>

京都大学公共政策大学院・法学研究科 教授 新川 敏光

民主的資本主義の終焉

本シリーズは、国際経済労働研究所の創立50周年記念式典シンポジウムと連動する形で、2012年9月号においてスタートした。それからほぼ3年に渡り、欧米、東アジア、ラテン・アメリカ等、世界各地の労働運動を取り上げてきたが、本号でひとまず幕を閉じる。3年という歳月は過ぎ去ってみるとあっという間に思えるが、この間世界はますます混迷の度を深めてきた。

 アメリカの中東への軍事介入は、地域一帯の秩序崩壊、悲惨と残虐を生み出し、人類史上の一大汚点となった。ギリシアの財政危機は、経済への政治の服従、財政規律の国民生活への優位を明らかにした。翻ってわが国をみれば、安部政権は格差や雇用不安の問題を放置したまま、円安バブルで株価上昇を演出し、その余勢を駆って、違憲と判断するしかない安全保障関連法案を数の力で押し切りろうとしている(2015年8月7日現在)。

 これらの現象は直接連関するものではないが、そこに共通点を見出すことができる。すなわち国民国家とデモクラシーの衰退である。東西冷戦の終結は、フランシス・フクシマが考えたように「歴史の終焉」をもたらしたわけではないが(Fukuyama 1993)、自由主義、より正確にいえば経済自由主義の勝利をもたらしたのは事実であり、経済のグローバル化を一気に加速することになった。グローバル化は、20世紀型の民主的資本主義(democratic capitalism)、すなわち資本主義をデモクラシーが管理するシステムを世界の労働運動:総括と展望崩壊させた。国民国家を前提として、そのなかで政治が国民生活を守ることが困難になり、デモクラシーは形骸化しつつある。グローバル化は、国民国家の自律性を浸食し、福祉国家機能を弱体化させ、資本主義を国家の枠から、そしてデモクラシーから解放した。

 このことは、いうまでもなくデモクラシーにとって忌々しき事態であるが、資本主義にとっても決して好ましい事態とはいえない。資本主義が、一部の者たちによる大多数の収奪に他ならないといっても、福祉国家全盛の時代には笑い話であったかもしれないが、21世紀に入ると、世界の格差拡大は誰の目にも明らかなものとなり、労働条件・環境の悪化は、プロレタリアートとプリケアリアスを組み合わせたプレカリアートなる新語さえ生んだ。日本国内をみれば、パート労働、派遣労働に代表される非正規(不安定)雇用が拡大するなかで、小林多喜二の『蟹工船』が再び注目された。このように資本主義への懐疑や批判は広く深く浸透し、その正当性を脅かしている。

 20世紀資本主義は、国民国家、デモクラシーと折り合いをつけることで、発展を遂げてきた。具体的に言えばケインズ主義によるマクロな需要管理、政労使の和解体制(典型的にはネオ・コーポラティズム)、累進課税や社会保障を通じての再分配政策などが、人々(国民)をむき出しの資本の論理から保護し、翻って資本主義の発展を促してきたのである。しかしグローバル化は、このような資本主義への政治的コントロールを著しく脆弱化し、資本主義とデモクラシーは乖離することになった。結果として資本主義を、自由主義の理念によって正当化することが困難になった。なぜなら自由主義の大前提である市民権の平等性が、もはや絵空事にしか思えなくなったからである。

 トマ・ピケティ『21世紀の資本』(2014)は、まさにこのような時代の雰囲気に応える研究であった。資本主義経済とは富の格差を作り出すものに他ならないことを、ピケティとその共同研究者たちは膨大な課税記録を追跡調査することによって、実証的に明らかにしたのである。富の寡占化状態が緩和されたのは、二つの大戦によって富が破壊された時代のみであり、1980年代以降は格差拡大が再び顕著になっている。

 格差が縮小し、格差拡大に転じたとはいえ、なおそれが比較的穏やかであった第一次世界大戦後から1970年代までといえば、国民国家を単位とする民主主義政治が浸透していった時代であり、とくに第二次世界大戦後は「黄金の30年」といわれる繁栄の時代のなかで福祉国家が発展した時代であった(注1)。

ピケティは、富の相続による不平等が耐え難いほど拡大している今日の状況を改善する方途として、世界的な資本税の導入を提起している。その意図やよし。しかしその前に、私たちが今考えなければならないのは、そのような課税と再分配を語ることを可能にするデモクラシーの復権である。

ドイツの著名な政治経済学者、ウォルフガング・ストリークは、「埋め込まれた自由主義」(注2)の終焉によって、資本主義とデモクラシーの関係が根本的に変わったという。EUは一国的に限定されたデモクラシーと多国間で組織された金融市場と監督機関をもつ多元的レジームであるが、そのなかでEU諸国は国家を超えた財政規律に自らを従わせなければならなくなった。このことは1960、70年代の政策遺産、とりわけ財政的には行き過ぎた社会権保障を見直すものであり、実は各国政府を非民主的な超国家レジームへと統合するものであるとストリークは喝破する。今日では、デモクラシーが市場を飼い馴らすのではなく、市場がデモクラシーを飼い馴らすようになってしまったのである(Streek 2014: 111-116)。

 このようなストリークの認識は、世界的な再分配を語る前に、まず国民国家レベルにおけるデモクラシーの再建が必要であることを示唆する。他の地域と比べれば、はるかに歴史的文化的同質性の高いヨーロッパにおいてすら、国家を超えたデモクラシーが困難であるとすれば、いやそれどころか、ストリークのいうように、実はEUはデモクラシーを形骸化し、資本優位を極めるものであるとすれば、今語られるべきは、グローバル・デモクラシーの夢ではなく、国民デモクラシーの再生である。まさにそこにおいて、労働運動の真価が問われている。
 

脚注
1: 筆者は、この変容をリベラル・ソーシャル・デモクラシー、すなわちソーシャル(平等性重視)を媒介とするリベラリズムとデモクラ シーの調整であったと考える。詳しくは、新川(2014)を参照されたい。

2: 「埋め込まれた自由主義」とは、自由貿易体制と社会的保護体制(福祉国家)を両輪とする戦後政治経済の制度枠組であり、そのなかで資本主義とデモクラシーの調整は可能になった。新川(2014)を参照されたい。
 


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