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所長コラム4:土佐堀川が育んだ改革者たちの言葉(4)

本山美彦(国際経済労働研究所理事長兼所長)

朱子学の批判者たち

1. 亀山社中・海援隊・土佐商会・三菱

よく知られているように、「亀山社中」(かめやましゃちゅう)が1865年に長崎に設立された。これは、交易をすることと、航海士を育てることを目的としていた。  勝海舟(1823~99年)の影響を大きく受けた坂本龍馬(1836~67年)を筆頭とする一団を母体とし、「神戸海軍操練所」(1864~65年)の解散をきっかけに、神戸海軍操練所の生徒であった一群の人たち(幕府の学校でありながら、反幕府の土佐藩士と長州藩になびく人たちが多かった)を巻き込んで、長崎・亀山の地で結成されたのが「亀山社中」(亀山隊、1867年解散)である。

結成後、すぐに資金難に陥った「亀山社中」を救ったのが、土佐藩であった。慶応3年(1867年)、土佐藩重役の後藤象二郎(しょうじろう、1838~97年)や福岡孝悌(たかちか、1835~1919年、「五箇条の御誓文」を起草した人物の一人)、薩摩藩の西郷隆盛(1828~77年)らの努力により、龍馬の脱藩罪が解かれ、龍馬を隊長とする「海援隊」(1867~68年)が「亀山社中」を引き継ぐ形で設立された。「海援隊」という名称は、海から土佐藩を援護するという意味から来ていると言われている。その現れとして、「海援隊旗」は「土佐藩旗」と同様に、「赤白赤の二曳(にびき)」と呼ばれるものであった。

海援隊の入隊資格は「およそかって本藩(土佐藩)を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者」とされていた。隊の目的は「運輸、射利、開拓、投機、本藩の応援をなすを主とす」とある。ここで、「射利」というのは、「利益追求」のことである。さらに、隊士の互助、修行科目(政法・火技・航海・汽機・語学等)の学習が謳われていた。

しかし、海援隊は、慶応4年(1868年)、わずか1年そこそこで解散した。それでも、維新後に政府の重鎮となった陸奥宗光(1844~97年、外務大臣)、中島信行(なかじま・のぶゆき、1846~99年、衆議院議長)、石田英吉(いしだ・えいきち、1839~1901年、長崎県令)などの多くの人材を生み出した。

また、岩崎彌太郎(いわさき・やたろう、1835~85年)も、土佐藩直営の「土佐商会」(1866~68年)の長崎出張所の主任として海援隊との交渉にあたっていた (http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/outline/kaientai.html)

土佐商会(開成館貨殖局)の長崎出張所の主任は、最初は後藤象二郎で、彌太郎はその後任であった。同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することにあり、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。また、海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、手厚く保護していた。  明治2年(1869年)彌太郎は「大阪商会」(旧開成館大阪出張所)に転出。以後、「九十九商会」、「三菱商会」(現在の三菱グループ)へと発展させた (http://naemon.jp/nagasaki/tosasyokai.php)

この所長コラムの表題にした「土佐堀川」は、土佐藩に因むものである、当然のことだが、経済の中心地の大坂には土佐藩邸があった。この周辺が幕末・維新の大坂(大阪)の基盤であった。藩邸は、長堀川(ながほりがわ)の両岸にあった。東は鰹座橋(かつおざばし)、西は玉造(たまつくり)橋までの広大なものであった。土佐からの人や物資は、大坂湾から木津川を上り長堀川にまで入る土佐藩の和船で運ばれていた。鰹座橋のたもとが積み卸し場所であった。  彌太郎は、明治2年(1869年)、西長堀側の土佐藩邸の責任者になり、蔵屋敷や「開成館大阪出張所」(大阪商会)の活動を取り仕切った。藩邸には土佐藩の若者たちが大勢居候して勉学に励んでいた。彌太郎の弟、彌之助もその中にいたという。

しかし、藩邸は、「鴻池」(こうのいけ)や「銭屋」(ぜにや)などの豪商の抵当に入っていた。また、時代の流れは、新政府によって、藩直営の商社が禁止される方向に向かっていた。このことをいち早く察した土佐藩士たちが、廃藩置県に先立って設立したのが、藩の経営ではない私営の商社、「九十九(つくも)商会」の設立であった。「九十九」というのは、土佐湾の別名である。この商会で、「大坂商会」の海運事業を引き継いだのである。これによって、虎の子の「高知・神戸航路」は引き続き確保できた。

「九十九商会」は、明治3年(1870年)の晩秋に設立された。代表者の名義は、彌太郎の腹心の部下2人であったが、監督者は彌太郎であった。藩船3隻が「九十九商会」に払い下げられた(https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro08.html)

同商会は、土佐藩の借金を肩代わり返済した上で、藩邸の大半の払下げを受けている。藩邸の名残は、「土佐稲荷」である。この稲荷は、土佐藩邸の「屋敷神」(守護神)であった。 「九十九商会」は、明治6年(1873年)に「三菱」を名乗り、翌年本社を東京に移した際に、彌太郎は西長堀の大半の地所・建物を大阪府に譲渡した。しかし、土佐稲荷だけは引き続き三菱で守ることにしたという。西長堀付近は、戦災に遭うまでは創業の頃の面影を残していた。昭和19年(1944年)の『養和会誌』(1940年設立された三菱グループのスポーツ施設の年誌には、三菱マークのついた大阪支店の倉庫や赤レンガの事務所を描写した紀行文が載っている。

土佐稲荷の東隣りが彌太郎の屋敷だった屋敷跡は大阪市立大学の家政学部のキャンパスだった時代もあるが、いまは高層住宅になっている。それでも、「岩崎舊邸(きゅうてい)阯」と刻まれた石碑が残っている(https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro09.html)


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