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5.【イギリス】「合意原則」(mutuality)とパートナーシップ

─イギリス労使関係変化を見る眼─

上田 眞士
同志社大学 社会学部 教授) 

1.「合意原則」(mutuality)と団体交渉
 戦後における、従来的なイギリス労使関係の諸特徴を集約して表象するキーワードを一つ挙げるとすれば、それはおそらく〈合意原則〉(mutuality)という概念になろう。戸塚秀夫他『現代イギリスの労使関係・上』(東京大学出版会、1987年)をはじめとした戸塚氏などの一連の著作は、この〈合意原則〉の内容を理解する上では、とりわけ重要な文献である。それらによれば、その〈合意原則〉とは、職場での日常的な問題をめぐって成立した、労使間での「合意を前提にした管理を追求する、という 約束」であり、「職場の労使関係の規範が凝集」した手 続的な規定を意味するものに他ならない(戸塚秀夫[1982]124-125頁(注1))。そして、上で紹介した戸塚他[1987]は、そうした〈合意原則〉という概念を基軸にして、1960年代から70年代にかけて、当時の代表的な自 動車メーカーBL社(British Leyland)で展開した労使の攻防を、この上なく鮮明に活写した日本におけるイギリス労使関係研究の代表的な業績である。

また、戦後の伝統的なイギリス労使関係世界に、この〈合意原則〉がどれほどの比重を持つものとして存在した のか、その重みを知る上では、当時の巨大組合・TGWU (運輸一般労組)が組合員向けに発行した、『工場レベ ル交渉』と題する交渉政策ガイドが、有益ないま一つの資料となろう。そこでは〈合意原則〉(mutuality)が、個々の課題での労使交渉を導く基本原則として位置づけられ、その考え方が以下のように提示されていた。
 
「(MUTUALITY)この原則が意味すること、それは作業条件と賃金の全ての側面が、永続的な交渉のもとに置かれねばならないということである。」「達成された全 ての協定が、労使相互の合意が到達した本質的に一時 的な性格の妥結であると見なされないなら、……、組合員の生活標準に天井が課されることとなる」
「この政策は、一度限りの取引といったものではなく、交渉過程の持続的な遂行(continuous process of bargaining)に他ならない」
「労使相互の合意(mutual agreement)で決定される主題を拡張するよう、あらゆる努力が払われねばならない」(TGWU[n.d.]6-7頁(注2)、下線は筆者)

ここからは、当時の労働の界隈への〈合意原則〉の広がりと、それが抱いた対立的な労使関係観を読み取ることが出来よう。まとめて言えば、戦後イギリスの多元主義的な伝統の世界では、賃金のあり方や仕事のあり方は、職場にまで深く根を伸ばした団体交渉によって色濃く集合的な規制の下に置かれていたということである。そして、企業の展開する経営管理も、この労働組合-団 体交渉を軸とした対立的な労使関係制度を前提として、そのもとで遂行されざるを得なかった。まず、ここで確 認しておくべきことは、このような従来型の団体交渉を中心とした労使関係のあり方、それを根底で支えていたものが、上に述べた〈合意原則〉(mutuality)という規範、その職場への定着であったということである。

2.労働組合と団体交渉の後退
 80年代以降、世紀をまたいで展開してきた労働組合 組織や団体交渉の後退は、民間部門においては、とりわけ深刻である。はじめに団体交渉から一瞥すると、表1はイギリス労使関係の全体像を俯瞰する、直近の「職 場雇用関係調査」(WERS2004)からのデータである。 賃金決定を主題とした団体交渉が、どれほどの従業員 割合をカバーしているか、1998年調査と2004年調査時 点でのカバリッジを部門別に比較している。それによると、何らかの団体交渉を通して賃金決定される従業員割合は、民間部門では労働党政権下であった1998年から2004年にかけても後退を継続しており、2004年時点では21%にまで低落していることがわかる(注3)。さらに、そうした団体交渉の後退の裏面では、「経営による片務的な賃金決定」のもとにある従業員割合が増大し、近年では7割(2004年・72%)を超えるに至っている(Kersley et al.[2006]185-186頁、Brown & Nash[2008]95-98頁(注4))。賃金決定の手続きの調落を、うかがい知ることができよう。また、労働組合組織率の後退も同様に痛ましい。大まかな動向を紹介すれば、1979年にほぼピークであった組織率は、当初、全体を通して5割を十分に上回る勢いであったにもかかわらず、世紀の転換点の近傍からは30%台を割り込む水準にまで衰退しており、民間部門に限ればその水準は、2007年時点で16% 程度にまで落ち込んでいるというのである(Simms & Charlwood[2010]131頁(注5))。80年代以降の30年間に、イギリス労使関係に根本的な転換が生じたということ、それは以上の断片的な資料からでも、明瞭に把握することができるように思われる。

そして、ここで大事なことは、その根本的な転換を迫った要因である。紙幅の関係から多くを語るわけにはいかないが、わけても重要な要因は、グローバル競争の激化という、市場環境の構造的な変化であろう。需要管理された市場を肥沃な土壌として展開した、労働組合-団体交渉を軸とした従来型の労使関係は、競争環境の枠 組みの構造変化の中で、衰退と変容のシナリオへと塡り込むことになったのである(Brown[2010]260-262頁、 Guest[1995]137-138頁(注6))。

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(注) データはウェイト処理済み。ベースは、従業員10名以上規模の全職場。1998年に関しては、2113名の管理者の回答、2004年に関しては2001名の管理者の回答にもとづく。
(出所) B. Kersley et al., Inside the Workplace: Findings from  the 2004 Workplace Employ ment Relations Survey, Routledge, 2004, Table 7.5 より抜粋。

3.パートナーシップとイギリス労使関係
90年代半ばから展開されてきた、パートナーシップ型の 労使関係の形成をめざす取り組みは、このように根本的に 変化したイギリス雇用社会の中に、何らかの形で労働サイド の集合的な発言を組み込んだ労使関係を作り上げていこ うとする、一つの有望なプロジェクトである。そして、そのプロ ジェクトが抱く構想の核心は、一つには、生産性向上や企 業競争力の改善を軸に、雇用や労働生活の改善を図ろう とするところにあり、またいま一つには、対立的な団体交渉 に代わって、協調的な労使協議のプロセスを労使関係制 度の中心に据えようとするところにある(例えば、TUC [1997]やTUC[1999]など(注7))。

しかし、現状はというと、それは決して順風なものとは言え ない。たしかに90年代には、パートナーシップの理念に沿った、幾つかの著名な職場労使関係改革の事例も紹介され たが、むしろ昨今では、大きな障害に逢着しているようにも 思われるからである。そして、その最大の障害は、金融資本 主義の流れを背景とした、短期主義的経営の強まりである。将来に向けて、イギリス労働組合が直面する一つの大き な挑戦課題は、最大の障害となる短期主義的経営の強ま りに対抗して、パートナーシップ体制を勝ち取ることにある、そ のように言うこともできよう。 ここで重要なことは、かつての〈合意原則〉(mutuality) とパートナーシップの理念との位相の異同である。まず一方では、両者の相違は明白であろう。分配的な取引にもっぱら 焦点をあてた〈合意原則〉と、経済的な富の創出を労使間 の課題に取り込もうとするパートナーシップの構想との間には、大きな位相の相違があり、それはそのままイギリス労働組合と労使関係が経験した苦難を表示している。しかし他方では、両者の間には長い時間を隔てて通底する、一つの共通点があるようにも思われる。そして、それは日常の労働をめぐる社会関係の中に、何らかの形で集合的な〈納得〉や〈了 解〉を組み込もうとする、執拗な姿勢に他ならない。パートナーシップ路線は、批判者が言うほどには、イギリス労働組合の魂を投げ捨てるものであるとは思われないのである。 

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(注)
1 戸塚秀夫『労働運動の針路』東京大学出版会、1982年。
2 TGWU, Plant Level Bargaining: Points toconsider when making or examining proposals,no date。

3 数値は、WERS1998とWERS2004に共通して適用可能な推計方法による。2004年調査が選好
した、2004年調査に独自の推計方法によると、団体交渉カバリッジの推計値はより高めとなる(Kersley et al.[2006]181-182頁)。
4 Kersley et al.[2006]については、表1の(出所)。W. Brown and D. Nash, 'What has been happening to collective bargaining under NewLabour? Interpreting WERS 2004', Industrial Relations Journal, Vol.39, No.2, 2008。なお、付け加えておけば、WERS2004を分析したBrown& Nash[2008]は、長きにわたる団体交渉の後退に〈下げ止まり〉の徴候が現れていることにも注意を喚起している(98頁)。注目に値しよう。
5 M. Simms and A. Charlwood, 'Trade Unions:Power and Influence in a Changed Context', in T. Colling and M. Terry, Industrial Relations:Theory and Practice,3rd. ed., John Wiley &Sons, 2010。
6 W. Brown, 'Negotiation and Collective Bargaining', in T. Colling and M. Terry,Industrial Relations: Theory and Practice,3rd.ed., John Wiley & Sons, 2010。D. Guest,'Human Resource Management, Trade Unions and Industrial Relations', in J. Storey ed.,Human Resource Management: A Critical Text, Routledge,1995。
7 TUC, Partners for Progress: Next Steps for the New Unionism, 1997。及びTUC, Partners for Progress: New Unionism in the Workplace,1999。

                     『Int'lecowk-国際経済労働研究』 2011年1月号(通巻1006号)掲載
 


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