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所長コラム6:土佐堀川が育んだ改革者たちの言葉(6)

本山美彦(国際経済労働研究所理事長兼所長)

大塩平八郎決起の檄文

幕末の陽明学者で天満の元与力・大塩平八郎(号は中斎)は、私塾「洗心洞」(せんしんどう)で教育と著述に専念していた。天保年間、近畿の地では凶作が続き、庶民は疲弊していた。そこで自分の蔵書を処分して救済するなどしたが、豪商から賄賂を得ていた幕府役人たちは、庶民の疲弊に無関心であったことから、平八郎は、役人と豪商に憤激し、周到な準備を整えないまま、門人や民百姓を糾合して反乱を起こした。天保8(1837)年2月19日(旧暦)のことであった。「窮民救済」の旗を掲げて、大砲を放った最初の場所が「洗心洞」である(大塩の乱)。乱は半日で鎮圧されたが、その影響は各地に波及、一揆が続発して幕府に大きな打撃を与えた。洗心洞後は大阪市顕彰史跡として、その記念碑が建てられている(大阪市北区天満1丁目25番地、造幣局官舎内)。

以下は、決起に当たっての「檄文」(原文)である。その後ろに私の現代語訳をつけている。ただし、原文の原本はいまだ発見されていない。伝わっている原文は、多くの人たちが写本のまた写本の連続からなり、本来の原本とは違ってしまっているはずである。事実、意味不明の言葉が数多く見られる。そういうこともあって、末尾に記した用語解説は、意味不明のものには触れていない。

檄文  「天より被下候 村々小前のものに至迄」

四海困窮致候者永禄永くたたん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、東照神君も「鰥寡孤独におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政の基」と被仰置侯。
然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表より諸国一同、右之風儀に落入、 天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥高直に相成、大坂の奉行並諸役人、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、 天子御在所の京都にては、廻米の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大坂市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大坂の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居の我等、もはや堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し、此度有志のものと申合、下民を苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大坂市中金持の町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に置候俸米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋ものえは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大坂市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭、一刻も早く、大坂へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。
必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興 神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民、いつ迄も、 天恩を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜天照皇太神之時代に復し難くとも、中興の気象に、恢復とて、立戻し可申候。
此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大坂より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大坂四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。
尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る所は、湯武、漢高祖、明太祖、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。
但し、此書付、小前之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。
若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。 奉天命致天討候。
 天保八丁酉年 月 日  某   摂河泉播村々   庄屋年寄百姓並小前百姓共え  (『大日本思想全集』第16巻、昭和6年、先進社内同刊行会より引用〉

以下、本山美彦の現代文訳
「これは、天から下されたものである。村々の百姓の方々に、これを贈る」(袋上書)
現世の天下の民が困窮しているようでは、この国は滅びてしまう。政治を担うには相応しい器ではない小人どもに国を治めさせておけば、災害が次々と生じてしまうと、昔の聖人は、後世の人々に強く言い残している。徳川家康公も「善い政治とは、身寄りもない人たちに対して、もっとも深い哀れみを掛けてあげることだ」と言われた。
ところがどうか?これまでの240~50年もの間、戦乱はなかった。しかし、社会の上層部の者たちは、贅沢の限りを尽くすようになってしまった。大事な政策を担う役人たちは、公然と賄賂を贈ったり、賄賂を受け取ったりしている。あるいは、地位の高い家に女を送り込んで、自らは道徳も仁義も持たない輩たちが、その女の縁にすがって、立身出世を図り、重要な地位を獲得している。これら輩たちは、自分の家族の生活を豊かにすることのみに汲々としている。そのくせ、自分たちが支配している民、百姓たちからは、重い税を取り立てている。
ただでさえ、重い年貢や賦役に苦しんできた多くの人々は、このような無体な強要に追いまくられ、出費がかさみ、貧困に苦しめられるようになってしまった。
いまや、上層部の者たちを恨まない人は一人もいなくなってしまった。当然である。同じような苦しみに、江戸はもとより、全国の人々がのたうっている。
天皇陛下も、足利時代以降、隠居同然に追いやられている。武家を罰する権利すら陛下にはない。下々の者たちが不満を訴えようにも、訴える先はまったくないのである。世の中は乱れきっている。
民の恨みに呼応して、天も怒っている。近年、地震、火災、山崩れ、洪水等々の自然災害が頻発するようになった。そして、ついに、食糧危機までもが発生してしまった。 これぞ、天が下している深い戒めである。ところが、上層部は、この天の戒めの意味に気付いていない。器が小さく奸計ばかりをめぐらす輩たちが政治を牛耳っている。下々の民を彼らは悩ませ、米や金銭を取り立てることばかりに熱中している。
私たちは、庶民や百姓たちのこうした苦しみを見るばかりで行動を起こせなかった。私たちは政治家どもを深く恨む。しかし、私たちには、過去の覇王である湯王・武王の勢力はない。孔子や孟子のような徳もない。そのこともあって、私たちは、いたずらに動けないでいた。
しかし、現在、米の価格は高騰する一方である。ここ大坂では人々が苦しんでいるにもかかわらず、奉行や役人たちは、人が等しく持たねばならないはずの仁を忘れ、私利私欲に駆られて、自己本位の政治を行っている。彼らは江戸に米を流している。しかし、天皇の居られる京都には米を回さない。わずか5升程度の米を買いに大坂にやってきた者をも逮捕するという酷いことを、彼らはしている。昔、葛伯という中国の支配者がいた。彼は、彼の領地に食糧を運んできた老人、子供たちを殺したと言われている。いまの大坂の政治はこれとまったく同じで、言語道断のものである。  全国のどこでも、同じ徳川家に支配されているはずである。ところが、この大坂だけは他と異なる酷い状況である。これは、奉行に仁がないからである。
上層部は、勝手気ままな布令を出して、大坂の有閑層ばかりを優遇している。彼らは道徳も仁義もわきまえぬ情けない連中である。全国の3つの都の豪商たちの中でも、大坂の金持ち、商人たちはとくに酷い。彼らは、以前から大名たちに金を貸し付けていて、その利子として莫大な金銀や扶持米をかすめ取ってきた。彼らはこの時勢にかつてないほどの裕福な暮らしをしている。彼らはそもそも低い町民の身分でありながら、位の高い武家屋敷の重要な役目の人間としての待遇を受け、おびただしい旧来の田畑と新田を我が物にして、なに不自由のない生活をおくっている。
目の前で起こっている天災や天罰を見ても畏れ入ることもなく、餓死寸前の貧民や乞食を救おうともせず、山海の珍味を食し、妾宅に入り浸たり、揚屋や茶屋に高位の武家の家来たちを招待して、高価な酒を湯水のごとく飲んでいる。
多くの人々が難渋しているのに、絹の着物を着て、芝居の役者や芸子たちを引き連れて、世の中が平穏であるかのように、つまり、危機状態にあることを知らぬげに、歓楽にふけっている。なんたることか。これでは、昔、紂王が連夜、酒宴を催していたという故事そのものではないか。
いま、奉行や役人たちが緊急に取り組まなくてはならない事態は、自分たちならできる政治力でもって、これら不届きな輩を取締り、下々の庶民を救うべきではないのか。  彼らは、それができなくて、堂島での相場にのめり込み、録をかすめ取ることばかりしている。このような役人や商人たちの所業は、天道や聖人の御心に叶うはずはなく、天は、許してくれないだろう。いままで、じっと我慢していた私たちは、もはや我慢することに耐えられなくなった。私たちには、湯王や武王の威勢はなく、孔孟の人徳もないが、天下のために、親類縁者に被害が及ぶことも厭わず、この度、有志で話し合って蜂起した。  まず、下々の庶民を苦しめてきた役人たちを討つ。さらに驕り高ぶってきた大坂の金持ちたちをも討つ。そして、彼らが隠し持っている金銀銅貨、あちこちの蔵屋敷に保管されている扶持米を運び出して、人々に配る。
そこで、人々に伝えたい。摂津、河内、泉州、播磨の田畑を持っていない人たちに、たとえ持ってはいても、父母、妻子やその他の家族を養うことがままならない人たちに、これらのカネや米を分配したい。それ故に、大坂で騒動が起こったことを伝え聞いた人たちは、たとえ、遠いところに住んでいても、厭わずに、一刻も早く大坂へ馳せ参じていただきたい。  上記のカネや米、つまり、驕れる者たちが無用に貯め込んでいるモノを分配することによって、当面の飢饉の難儀を救いたい。闘う力のある人たちには、一緒に無法者たちの征伐に参加していただきたい。  ただし、これは単なる一揆的な蜂起ではない。だんだんと年貢や賦役を少なくし、すべてを王政時代に復帰させる。神武天皇のご政道に戻し、情け深く、度量の広い政治を行い、従来からの悪弊である、驕り高ぶり放埒な風俗を根底から払拭し、質素な生活に戻し、すべての人々が、いつも天の恩に感謝し、父母妻子を養い、いまの生き地獄から救われ、死後、極楽浄土に行けることを自覚できる世の中にしよう。
中国の尭舜時代や、日本の天照大神の時代にまで戻すことは難しいだろう。しかし、せめて建武の中興時代にまで立ち戻りたい。  この書付を、すべての村に送りつけたいのはやまやまであるが、それは難しいので、最寄りの人家の多い村の神殿に貼り付けて置く。早晩、大坂から番人たちが各村に巡視に行くであろう。彼らには知られないように、この書付の内容を村人に知らせてほしい。万一、番人たちがそれを知り、悪人たちに注進に及ぶような恐れがあれば、容赦なく、みんなで彼らを打ち殺していただきたい。
騒動が起こったことを耳にしたら、とにかく早く駆けつけてきていただきたい。ことを知っても、疑いを持ち、馳せ参じてくれなければ、すべてが遅れてしまう。私たちは、いまから火を付ける。馳せ参じてくれなければ、みんなにカネや米を配る前に、そうしたものが灰燼に帰してしまう。それでは、天下の宝が失われてしまう。後日、私たちを恨み、宝を焼き払った無道者たちだとの悪口を述べないでいただきたい。そうならないように、私たちは、この内容の宣言を発したのである。
これまで、地頭や村役たちに保管されている税に関するあらゆる記録や帳面の類いを、私たちは、引き裂き、破り捨てる所存である。これは、将来にわたって人々を困窮させないための行為である。
この度の私たちの蜂起は、かつての日本の平将門、明智光秀の謀反、中国のは劉裕、朱全忠の謀反に似てはいるが、私たちは、天下国家を盗み取ろうとするような欲得に駆られたものでは決してない。
それは、月や太陽、そして星などの天の動きに摂理があるように、人もその摂理に支配されている。つまり、湯武、漢の高祖、明の太祖が、民を弔い、悪い支配者を征伐して、天誅を執行したのと同じように、私たちは、誠を実行しようとしているのだ。もし、疑わしく思うなら、私たちがなにをするかを、終始見定めていただきたい。
望むらくは、この書付を、修行を積んだ法師や医師諸氏が、庶民たちにとくと読み聴かせていただきたい。庄屋とか村の役員たちが、いま生じていることについて、連座の罪に問われることに怯えて、この書付のことを人々の目から隠してしまえば、後日、直ちに、隠したという罪の報いを受けることになろう。 ここに、天命を受けて天誅を下す行為に打って出る。
天保8年丁酉(ひのととり年) 匿名  摂津・河内・泉州・播磨の村々の庄屋・年寄・百姓および貧民の百姓たちへ

訳文は以上である。以下、原文にある難しい用語の解説をしておきたい。

小前(こまえ)=田畑と家屋敷を持つ本百姓。
四海(しかい)=四方の海の内、日本国内。
永禄(てんろく)=天の恵み。
東昭神君(とうしょうしんくん)=徳川家康の死後の敬称。
鰥寡孤独(かんかこどく)=「鰥」は老いて妻のない夫、「寡」は老いて夫のない妻、「孤」は「みなしご」。「独」は子のない老人のこと。いずれも身寄りのない寂しい者の意。
奥向女中(おくむきじょちゅう)=大名の妻が居住している部屋を「奥向」といい当主以外の男子は立ち入り禁制であった。そこに勤務する女性たち。
江戸表(えどおもて)=政治・文化の中心である江戸を、地方から指していう言葉。
湯王(とうおう)=殷を起こした王、暴虐の夏を滅ぼし、民を愛した王として語られている。
武王=周の武王、暴虐を極めた殷の紂王を討ち亡ぼし、善政を施した。
廻米(せんまい)=米を他の地域に回すこと。
葛伯(かつはく)=湯王が、まだ夏国の一武将であった時期(商王朝を建てる前)、隣国の君主、葛伯が祖先を祭る儀式を執り行わないので、これを問いただしたところ、祭礼の生贄に使うや羊がないからだとの答えであった。そこで湯王は葛伯に牛や羊を贈ったところ、葛伯はこれを自分で食べてしまい、祭りを行わなかった。湯王が再び問いただすと、こんどは、お供えの穀物がないからだとの返答がきた。湯王は、今度は、老人や子供に肉や穀物を運ばせ。ところが葛伯は彼らを殺し、食物を奪った。怒った湯王は、葛伯を攻め落とした。天下の人々は、湯王が私欲で他国を攻めているのではないとして、湯王の戦いを支持した。
膏梁(こうりょう)=肥えた肉と美味な穀物。
紂王(ちゅうおう)=正式名は帝辛(ていしん)。殷朝最後の王。周の武王に滅ぼされた。暴虐な悪政を行なった王とされ、最悪の王として中国史では語られている。
天道聖人(てんどうせいじん)=儒学の四書(ししょ。『論語』『孟子』『大学』『中庸』)の1つ、『中庸』の中の言葉。誠を目的とする天の道に辿り着いた昔の聖人たち。
鉅橋鹿台の金粟(きょきょうろくだいのきんぞく)=上記紂王とその妃、妲己(だっき)の倉が鉅橋(きょきょう)。ここに重税で民から巻き上げた金銭が貯め込まれていた。鹿の皮で創られた台(鹿台、ろくだい)には粟が大量に保管されていた。『史記』に叙述されている。
中興(ちゅうこう)の気象=「建武(けんむ)の中興」のこと。元弘3年・正慶2年(1333年)、 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都で天皇親政を復活した。翌年建武と改元し て公家一統の政治を図ったが、足利尊氏の離反にあい、2年半で崩壊、天皇は吉野に移って、南北朝時代となった。
堯舜(ぎょうしゅん)=堯(ぎょう)、舜(しゅん)は、人格の尊さで儒家たちによって崇めら れた神話上の聖人たち。身内でないものに政権を成功裏に委ねた「禅譲」の模範とされる。
天照皇太神(あまてらすおおみのかみ)の時代=本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤、佐藤信淵等の「国学者」たちによって語られた理想的な古代日本の政治形態。平等・公平の善政が施かれていたと讃美されていた。
劉裕(りゅう ゆう)=武帝のこと。南朝の宋の初代皇帝(高祖)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は「劉宋」と称されている。
朱全忠(しゅ ぜんちゅう)=五代後梁の初代皇帝(太祖)。
日月星辰(じつげつせいしん)=太陽、月、星を総称した天空を辰(しん)という。
乙酉(ひのととり)=干支の年の名称。60年に一度めぐってくる。この年は天下大乱が起こると言われている。ちなみに、平成29年は乙酉年である。


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