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【2015年2月号】阪神大震災20年におもう

1月17日阪神大震災発生20年を迎えた。早いものであるが、神戸市民の半数はこれを経験していないようだ。その意味でもわが国のような地震多発地帯では、繰り返しこれを伝承し日常の対策訓練を引きついでいかねばならない。地震予知連という国のかかわる機関があり相当な予算を費やしているが、未だ予知に成功したことがない。在日の米人専門研究者は「予知は困難」と結論付けているが、予知連の日本人先生方はこれに反対のようで、予知連は健在である。しか し、依然として当たらない。地震多発国で執念深く研究するという態度は全否定できないが、実績に応じて結論を明確にし、不可能なことは不可能と科学的態度を明確にすべきであろう。

神戸は誰が見てもその破壊の度合いに比べて復興が早く、ひっきりなしに見学者が続き、今日におよんでいる。当時県知事だった貝原さんは「創造的復興」という新しいコンセプトを掲げ、神戸市内に国連に対応する復興開発機構を設立して退任後その代表として国際会議の開催や地震の対策研究に努力し、いざというときの訓練システムやそのトライアルに熱心だったが、残念ながらこの20年の直前に交通事故で亡くなられた。その記念の会やそこで語り継ぐ言葉も用意されていたと思われるがまことに残念である。

さて、東北の復興が進んでいないことについて、さまざまな批判を聞く。神戸の場合は6千人を超える死者と数10万という全壊家屋など大変な被害であったが、復興がきわめて早かった。その理由として大きかったのは、ちょうど産業再編期で、神戸の海岸筋に軒を連ねていた神戸製鋼・川崎製鉄などの重厚長大型の巨大企業とその下請けが神戸を離れて郊外に移動の最中であって、海岸筋や工場地帯に空地の広がる可能性が高まった時期と重なったことがある。沿岸から工場地帯にむけて高層耐火の被災者住宅あるいは新住宅が大量に供給できたことがある。さらに長田という戦前からのゴム産業密集地―現在は世界的なケミカル産業の集積地―従業人口4 ~ 5万人―が火災で大規模消失し、さらに金属加工中小の兵庫区の一部の工場地帯が被害にあったことから、県・市中心に国のサポートも得て2700億円という大規模な復興開発資金による建築群が出来上がり、当時も注目された復興過程があった。これは都市直下型地震による大規模火災を含む被害に対して迅速な復興として注目されたものである。

このような大規模災害の復興過程では必ず発生するが、当時からいくつかの問題点が指摘され、議論にもなっていた。1つには大規模マンションによる復興のため、居住地区が遠くなるためにコミュニティが崩壊する。特に老人の1人住まいや孤立が増えること。そのために生活不便が増え、孤独死が増える事実が統計的にも結果が出ている。そのために当時からその弊害を抑制するための試みとして、旧コミュニティ単位による交流の強化や孤独になる可能性のある世帯への定期見回りや交流がすすめられた。福祉学者からこのスタイルのマンション住まいへの転換をやめて旧型の低層住宅スタイルを用意すべきだとか言った見解も出ていた。しかし、下町の老朽住宅よりははるかに快適な住まいに換われた世帯が圧倒的でもあったので、快適さも評価されてよかった。

当時、国の代表として復興委員会に携わっていた下河辺氏とはしばしば酒を酌み交わしながらよく話しあったことがある。氏の話す中には現地が早く幕を引きたがるという意見なども聞かされた。すなわち復興を急ぎ早く進めたいという側面と状況をよくする配慮とは対立するものではないが、対立する面があることも事実であった。神戸の場合、ともかくいったん住まいを保証して、一定段階で交換あるいは交代することでこの不満を解消しようとしたが、それが今日まで未解決で不満が残っている場合もある。 (会長・板東 慧) 


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