本サイトへ戻る
カテゴリー一覧

3:小さな物語が繋がり支え合う大きな世界の労働運動(2)<2/2>

1945年後のフランスとブリテンとも平和運動の対比は、 とりわけ解明にやくだつ。なぜなら、それを説明するのに、 伝統の諸要因以外の他のなんらかの要因をみいだすこと は困難だからである。フランスは、自然発生的な大衆的平 和運動をもったことがなく、唯一の例外は、共産党が、核 反対のうったえを支持してその精力をそそぎ、したがって、 ひじょうにおおくの署名をあつめた局面である。ブリテン人 は、核戦争反対の世論をすすんで動員しようとする、ある いはそうすることのできる、重要な政治組織をもったことが ない。(「世界平和運動」と共産主義とのあいだの緊密な 関係は、おそらく、ブリテンにおける広範な基礎をもつ大衆 的平和運動の出現を、「冷戦」の最悪のヒステリー症状の 終結後までおくらせた。)他方、非公式な民衆グループが、 暗に平和主義的な核非武装運動を即座につくることがで きた。そしてそれは、おそらく日本人のそれを例外として、世 界におけるもっとも巨大な核反対運動、および(あまり成功 していない)外国の模倣者たちの模範となったばかりでな く、せまいそれ本来のしごとをこえて、ブリテンの政治におけ る主要勢力となった【ホブズボーム、E. J(. 鈴木幹久・永井 義雄訳)(1998)『イギリス労働史研究』ミネルヴァ書房】。

54年、日本の漁船第五福竜丸の乗組員がアメリカのビ キニ環礁における水爆実験により被爆したことから原水禁 運動が始まり、一般大衆が知識人の指示を仰がずとも自 立的に爆発的エネルギーを発揮するようになり、彼らの運 動は政治をも動かす一大勢力を形成することになった。
民衆が持つ反戦感情のパワーは、いかなる知識人の説 く平和論の影響力をも凌駕するものであった。主にリベラ ル派の著名知識人が結成した平和問題懇談会は、49年 と50年代初頭に討論を重ね、マルクス主義的思想と切り 離し、極力党派性を排した論法で全面講和推進と平和 憲法の順守を呼びかけた。しかし国民の多くは、平和問題 懇談会のメンバーを左翼シンパとみなして信用せず、メ ディアも彼らの主張が理想主義にはしり非現実的であると して冷淡であった。しかしそれとは対照的に、ビキニ事件 で噴出した反核・反戦感情は国民的規模で広がり、その 後の日本人の戦争・平和観の基底として定着した。戦時 中の悲惨な体験と、今現在の不穏な政治・社会情勢にか きたてられた将来おこるかもしれない戦争への恐怖は、学 者が説く平和論よりはるかに強力に民衆の心をとらえた 【山本真理(2006)『戦後労働組合と女性の平和運動― 「平和国家」創生を目指して』青木書店】

ホブズボームは英国の歴史家であり、『市民革命 と産業革命』『資本の時代』『帝国の時代』『20世 紀の歴史―極端な時代』等の著作の邦訳で日本で も有名な人物である。おそらく過去百年で世界の歴 史家の何本の指に数えられる。引用した『イギリス労 働史研究』は、英国を含む欧州の社会労働運動に おける伝統の有り様を縦横に語り、60年代に既成 左翼の「大きな物語」に挑戦した名著である。そこで 言及された平和運動に関わった多くの労組の有り 様は、先に大河内が指摘した「イギリス流の労働組 合」とはまた異なる。そしてここで英国同様「広範な 基礎をもつ大衆的平和運動」を築いた日本人達を 束ねたのが高野実だ。さらにこの「平和主義的な核 非武装運動を即座につくることができた」非公式な 民衆グループの存在に注目し、そのエネルギーを汲 み取った高野時代の労働運動を女性の平和運動 という観点から再評価したのが、当時から半世紀後 に英国オックスフォード大学で学んだ日本人だった。 それは恰も誰かが高野総評とその世界性に付いて 我々の忘れた記憶を呼び醒す為、それを思い起こ せる場所に彼女を送ったかの様に。

この日英に共通な社会労働運動の有り様は、2 で筆者が、米国の社会労働運動の有り様、とりわけ 元奴隷の黒人小作から新移民の白人産業労働 者、中小商店主から宗教家まで多様な人々から構 成された様々な運動の諸連合であった人民主義運 動のそれを例に指摘した「諸運動の運動」或いは 「諸連合の連合」型の、もう二つの事例と考えて良 かろう。この表現は、元々1990年代に世界各地で 族生した先進各国の政財界指導者が集まる国際的 な経済会合に抗議する直接行動の総称たる反グ ローバル化運動の有り様を述べた言葉だ。そしてこ の運動表象を用いて反グローバル化運動の原型と して、日露戦争前夜に非戦論を訴え同時に社会主 義思想の宣伝に努めた新聞を発行し、当時の国内 外の多様な社会主義運動と開かれた連携を模索し た平民社を描いたのがベン・ミドルトンの「平民社とグ ローバリズム―「下からのグローバル化」という未完 のプロジェクト」だ。この論文が収められた梅森直之 編『帝国を撃て―平民社100年国際シンポジウム』 (2005)論創社は、平等とより良き未来の大きな物 語にありがちだった発展段階論的思考や欧州中心 主義的視点、さらに近代と伝統に付いての二項対 立的発想や非欧州間の運動連携への盲目等を批 判。小さな物語が繋がり支え合う大きな世界の社会 労働運動というもう一つの運動史の構築に、力強い エールを送る。

この点でもう一つのエールが同じ平民社を論じた 40年前の名著からあった。松沢弘陽『日本社会主 義の思想』(1973)筑摩書房だ。  

日露戦争前後に於ける平民社の空気は、明らかに『万 朝報』によって企てられた理想団の延長であった。・・・・・・ 理想団といふのはいふまでもなく、現社会に対して何等か の改革意見をもった男女の雑然たるあつまりで、仏教徒も 居れば、キリスト教徒も居る。社会主義者も居れば、社会 改良家も居る。音楽家も居れば、画家も居る。文士も居れ ば、詩人も居る。資本家も、労働者も、医師も、教員も、弁 護士も、坊主も、神主も、官吏も、軍人も、有りと有らゆる生 活層から一風変つた人間を網羅した社交団体だった。イ ギリスが北米大陸の開拓に着手した初め、幾団かの清教 徒が・・・・・・理想郷の建設を試みた。理想団及びその 延長である初期の平民社といふものは、先ずそんな心持 ちのものであった。・・・・・・かくいへば、平民社の連中が 如何にも古いユートピアンであつたやうにも聞える。しか し・・・・・・平民社の空気がユートピア的であつたといふこ とは、必ずしも平民社の中心人物までがユートピアンであ つたというふことにはあたらぬのだ。堺、幸徳、安倍、西川 等諸氏の間には、この時すでにマルキシズムに関する重 要文献は悉く網羅されて居り、その熱心な研究も起つて 居た。

この本の冒頭「はじめに」で、平民社の生き残り 白柳秀湖が1934年のマルクス主義の盛時も過ぎか かった頃、当時の社会主義観に基づく平民社理解 に抗弁した件を引いた後、自らの所信を開陳する。

問題がまず、平民社の「中心人物」とそれを繞るおよそ 多種多様な人々との重層性にあることが、うかがわれよう。 社会主義の世界に未だ一義的に公定されたオーソドクシィ が形成されない時代だったから、「万国社会党」を範とする 「中心人物」のほかに、蘆花が「自家の社会主義を執る」 と 宣言したように各人各様自己流の社会主義を奉じる ものから、社会主義を部分的に支持するもの、さらに社会 主義には必ずしも共感しなくても社会主義者のパーソナリ ティや「同志相交」の雰囲気を慕って集まるもの者までさま ざまだった。そこには後の世代の社会主義像をはみ出さざ るをえぬ、その意味で「意外な姓名」(堺利彦)が多く含ま れていたのであり、こうした重層性は眼を東京の「平民 社」から全国にむければさらに著しい。

ここで上述の平民社の特徴が、2で述べた「諸 運動の運動」「諸連合の連合」としての米国社会 労働運動に通底する改革伝統と見事に重複し、また 「平等とよりよき未来に向けた小さな物語をいくつも 編んでいくなかで」で互いに会ったこともない人々が 集う想像の共同体への「合言葉」として在った米国 の社会主義の様と全く相似するのに驚くのも良かろ う。だが高度成長前に清水が戦後日本の社会労働 運動について使った「はみ出し」という表現を、高度 成長後に明治末期の日本の社会労働運動の有り 様に用いたことにも、やはり驚かされないか。


世界の労働運動 の他の最新記事