本サイトへ戻る
カテゴリー一覧

【2004年5/6月号】自己責任論の周辺―イラク人質事件に思う─

イラク人質事件は確かに重大ニュースであったが、これをめぐって起こったわが国内における論議と騒ぎは、一皮むくと、あまり価値のあるものとは思えない。もともと自己責任は、この場合当然の前提であって、これが論議になること自体がおかしいからである。

今回の問題点についてあげると、第1に、あの時点のイラクは、通常の常識でいっても戦時的紛争の最中であり、外務省もしばしば危険告知をしており、それ に対する覚悟と周到な準備なしに訪れることはおかしいのであり、そのことについて当然家族も自覚しているべき性格のものといえる。第2に、その意味で、出 発前に本人と家族の間にその了解があるのは当然である。これに対して大半の家族にその認識は弱く、事が起こるとうろたえて泣き叫び、その責任が政府の自衛 隊派遣にあるかのごとき言動が目に余った。自衛隊派遣を理由にしているのは誘拐者の理屈であって、拉致を正当化するものでないことは明らかである。いかに 彼らが述べようと自衛隊派遣と拉致の問題とは自ずから異なる次元の問題である。第3に、本人たちの問題としては、この程度のことが起こりうること、もっと 直接的に流れ弾で死に至る程度のことも起こりうる可能性が十分あることは予測されるのだから、家族にもその覚悟を問うことがあっても当然であり、家族もそ の覚悟の一端を担わされているはずである。ところが、この認識なしに家族たちの多くが、逆に政府批判を先行させようとしたところが顰蹙をかったのである。 まさに、戦後体制の生み出した「平和ボケ」と家族間の相互の行動に対するコミュニケーションの無さ─関心の現われといってよい。TVを通して、典型的な親 バカと子バカのミーイズム─自己中が披露された感が強い。もとより人情一般として同情は起きるとしても、その醜態は否定できず、さすがにその後はこれら家 族もやや冷静を取り戻した感はあった。しかし、また、これを政治宣伝に利用したり、家族たちの中にそのような動きもあった。

人質になった3人についていえば、真実を突き止めたい欲求やボランティア欲求そのものは否定しないが、現地の人々が毎日命がけであるのと比べると、自分 たちの行動は余りにもかけ離れていないかという自覚も必要であろう。やや趣味や思いつきに片寄りすぎた甘さはないのか。あのフリージャーナリストの場合、 メジャーの企業ジャーナリストが危険として引き下がった代わりに危険をおかして取材するのは、英雄的で収入にもなるであろうし、生きがいもある一面、今回 の拉致のされ方をみると、いかにもプロとはいいにくい。お粗末さが伺える。もし、この活動の誇りと正当性があるのならば、出発前に家族にきちんと説明すべ きであろう。

政府はいかなる場合にも、国民を救うために全力を尽くすべき立場にあり、その行為の上で、忠告も批判も行いうる立場にある。外国の記者が彼らの行為を誇 るべきと言ったのは、わが国のマスコミを含めた議論のレベルが低いことを皮肉ったものであり、自己責任論などは彼らにとってはいわずもがなの前提である。 この問題をめぐってはマスコミメジャーも政界も大きく2分されたが、誘拐者の論理そのままに、問題を自衛隊派遣の是非に直接すり替えようとする意見は、明 らかに政治的意図がある。この政策論議は、それ自体重要なのであって、事の本質をすり替えようとするのはいかにもお粗末である。(伴)


地球儀 の他の最新記事