本サイトへ戻る
カテゴリー一覧

所長コラム5:土佐堀川が育んだ改革者たちの言葉(5)

本山美彦(国際経済労働研究所理事長兼所長)

蛮社の獄と社中

前稿で説明したように、「社中」というのは、同じ目的を持つ人々で構成される仲間や組織を指し、活動の拠り所となる最小単位となっている。たとえば、「蛮社の獄」で有名な事件の「蛮社」は「蛮学社中」の略称である。私は、渡辺崋山(わたなべ・かざん、1793~1841年)を尊敬している。彼が被った「蛮社の獄」について説明しておこう。
 
蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10(1839)年5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英(たかの・ちょうえい、1804~1850年)、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた。天保年間(1830年代)、江戸では、西洋医学を学ぶ医師以外にも、多くの人の間で、蘭学を学ぶ機運が高まっていた。長英がもっとも目立つ存在であった。当時の「国学」派からは、蘭学を「蛮学」と軽蔑し、その研究者たちを「蛮社」と呼んでいた。「蛮社」を弾圧した首謀者、鳥居耀蔵(とりい・ようぞう、1796~1873年)は林家の一族である。林家は幕府の御用学である朱子学の頂点に立つ家柄であり、鳥井耀蔵は、蛮学の取締りを強化して、本家(林家)での出世を意図していたのかも知れない(真相は不明だが、当時の林家の姿勢への論争は続いている)。

欧米では、産業革命後、有力な市場兼補給地としての極東が重要視され、18世紀末以来、日本近海には異国船の来航が活発化し始めていた。それに対して、幕府の権力者たちは、オランダ、中国を除く外国との全面交易は、幕藩体制を危うくするとの危惧感を頑固に維持していた。文政8(1825)年には、「異国船打払令」が、第11代の徳川家斉(いえなり、1773~1841年)の名で出された。その後、文政11(1828)年には、幕府天文方・書物奉行の高橋景保(かげやす、1785~1829年)が、禁制の地図をフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)に贈ったという「シーボルト事件」が起こり、幕府の機密が漏洩したことで、幕府は動揺した。

さらに、天保3~8(1832~37)年にかけて、天保の大飢饉が起こり、餓死者が続出して、一揆と打ち壊しが頻発した。とくに、天保8(1837)年の「大塩平八郎(おおしお・へいはちろう、1793~1837年)の乱」や、「生田万(いくた・よろず、1801~37年)の乱」(大塩の乱の波及)等々で、幕府体制は大きく軋(きし)み始めていた。与力としての大塩平八郎が、部下たちに陽明学を教えていたこともあって、幕府上層部は、反乱前から平八郎を敵視していた。

「蛮社の獄」に戻る。 「蛮社の獄」の大きなきっかけは、「モリソン号事件」である。この事件は、天保8年に起こった。  江戸時代には日本の船乗りが嵐に遭(あ)い漂流して外国船に保護されることがしばしば起こっていた。小笠原諸島で遭難した日本人7名が、外国船に救助された後マカオに送られた。同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キングが、彼らを日本に送り届けることを引き受けたが、漂流民を日本に届ける見返りに、日本を開港させようとした。その任務を委ねられたのが、アメリカ船モリソン号であった。

天保8年にマカオを出港したモリソン号は、浦賀に接近したが、日本側は「異国船打払令」を適用して、沿岸より同船に砲撃をかけ、モリソン号はやむをえず退去した。その後、同船の船長は、薩摩で上陸して、城代家老の島津久風(しまず・ひさかぜ、1794~1851年)と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された上、薩摩の警備兵から空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側からの砲撃に対して、モリソン号は、反撃しなかった(武装していなかったとも言われている)。

翌、天保9(1838)年、長崎のオランダ商館が、モリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと、および、通商を求めてきたことを知った。老中・水野忠邦(みずの・ただくに、1794~1851年)はこの報告書への意見を幕閣に求めた。意見を求められた幕閣の代表は、鳥井耀蔵の父で、大学頭(だいがくのかみ、昌平校校長)の林述斎(はやし・じゅっさい、1768~1841年)であった。

評議は、概ね穏健な答申内容であったが、中には、一切、外国船は打ち払うべきだという強行意見もあった。皮肉なことに、この強硬意見(林大学頭は穏健派だったと言われている)のみが長英や崋山に伝わり、彼らが激昂したのである。強硬意見に反論すべく、長英は、即刻(1838年)、『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を匿名で書き上げた。列強による交易要求を幕府が拒絶した場合の報復の危険性を暗示したのである。これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に沿う形で『夢々物語』、『夢物語評』などが現われ、幕府の危機意識を増幅させた。

一方、崋山も『慎機論』(しんきろん、同年)を書いたが、論旨が一貫せず、外国事情に疎(うと)すぎる幕府高官に対する激越な批判のみが目立ったものになってしまった。 いかにも、権力がしそうなことだが、様々な陰謀によって、崋山や長英は断罪された(しかし、現代の歴史家たちで、保守的なイデオロギーを帯びた人たちの中には、林一族を強固に擁護し、蘭学で幕府転覆を狙った当時の改革論者たちを悪し様に言う人たちもいる)。

長英が文を書き、その長英を心から尊敬する崋山が挿絵を描いた瞠目すべき著書がある。未曽有の天候不順で大量の餓死者の出た天保の大飢饉の時、二人は、『勸農備荒・二物考』(天保7年、1836年)という、オランダの書物を下敷きにした「早蕎麦」(はやそば)と「馬鈴薯」(ジャガイモ)の栽培書を出した。当代一流の洋学者であった長英が誰もが理解できるように平易な日本語で書き、字の読めない者のために同じく当代一流の画家であった崋山が絵を描いたのである。

早蕎麦は、長野県下高井郡山ノ内町や下水内郡栄村などに伝わる大根とそば粉で作った郷土食としていまでも残っている。大根を細く千切りにし、鍋の中で煮て、醤油か味噌で味付けをし、水で溶いたそば粉を鍋に少しずつ入れて掻き回す。そうすれば、千切り大根にそば粉がついて、「そば切り」のように見える。そば切りを作るよりも早く短時間で仕上がることから「早蕎麦」の名前がついた。大根のシャキシャキ感と、水で溶いたそば粉の喉ごしがいいとされている。手軽にできる日常の食として今日まで伝承されてきたが、大根を増量材として用いる救荒食の意味合いも強かった。現在では、長野県の選択無形民俗文化財に指定されている。


所長コラム の他の最新記事