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所長コラム1:土佐堀川が育んだ改革者たちの言葉(1)

本山美彦(国際経済労働研究所理事長兼所長)


 1. 明確になった保守的陣営の勝利

2016年7月10日の第24回参議院選挙と、同年同月31日の東京都知事選挙の結果は、左翼を自認する勢力の史上最悪の敗北を白日の下にさらしたものであった。「日本共産党」を除く社会民主主義的左翼政党は、壊滅状態になってしまった。今日、投票棄権者を含め、日本の有権者たちの大多数が、政治に関心を示さなくなった。というよりも、いまは、いわゆる左翼的なものに、多くの人々が露骨に嫌悪感を表明するという時代に入り込んでしまった。

2016年夏の参議院選挙では、改憲派の委員が参議院議席数の3分の2を超えた。保守政党の改憲派にとって、これは60年来の念願がかなった快挙であった。

60年前の1956年7月の第4回参議院選挙では、「自主憲法制定」のスローガンを掲げて参議院選挙に打って出た「自由民主党」の鳩山一郎(はとやま・いちろう、1883~1959年)政権は、改憲に必要な議員比率の3分の2を獲得することに失敗した。

1955年10月13日には、「護憲」を共通目標とする、左右分派の再合併で、新生「日本社会党」(委員長・鈴木茂三郎、すずき・もさぶろう、1893~1970年)が生まれていた。そのきっかけは、「護憲」を掲げて、同年2月27日の第27回衆議院選挙(総選挙)において、改憲阻止の3分の1以上の議席を、左右社会党、「労農党」、「日本共産党」の野党4党が占めたことにある。「護憲」が共闘の接着剤になったことが左右両派に分かったからである。

野党の台頭に危機感を抱いた保守側は、「日本社会党」の再結合に対抗して、野党合同からわずか9か月後の1955年11月15日、「日本自由党」(党首・吉田茂)と「日本民主党」(党首・鳩山一郎)との保守合同でできた「自由民主党」の鳩山政権(幹事長・岸信介、きしのぶすけ、1896~1987年)が、「自主憲法制定」を真正面のスローガンに掲げて打って出たのが、二大政党対立時代のいわゆる55年体制初の参議院選挙であった。この選挙は、「日本社会党」党首の鈴木茂三郎の国民的人気によって阻止されて、改憲派は3分の2を取れなかった。

その次の、第28回衆議院議員総選挙(1958年5月22日)は、二大政党選挙による国民の関心が高く、投票率76.99%という、男女普通選挙になってから最大の投票率を示した(この高さは、現在も破られていない)。自民党は当時の好調な経済発展を背景に国民の支持を集めるだろうとの読みで、その回も、日本国憲法に代わる「自主憲法制定」を主張して、3分の2を超える議席数の確保を目指した。しかし、辛うじて単独過半数を得たが、やはり、3分の2を超える改憲派の議席を得ることはできなかった。

この選挙以降、自民党は、「改憲」をスローガンにした選挙戦は行わなかった。

ところが、鳩山一郎が「改憲」を標榜して打って出た1956年の参議院選挙から60年、陰に陽に「改憲」を訴えていた安倍晋三(あべ・しんぞう、1954年~)政権の与党(「自民」と「公明」)が145議席、その他の改憲派が19議席を取り、全242議席の3分の2(162議席)を2議席上回る164議席を確保した。安倍首相は、衆知のように、60年前の参議院選挙を担った「自民党」幹事の岸信介の婿である。マスコミが騒いだように、まさに60年ぶりの祖父の思念が稔った瞬間であった。

それにしても、なぜ社民的勢力が、60年の間に壊滅してしまったのであろうか。左派陣営の退潮や保守的雰囲気の蔓延を、ただ恨めしく嘆いたところで時代の雰囲気は変わらない。変えるには、どのような作業が必要となるのだろうか。その手掛かりのひとつに私は地域史の発掘作業を挙げたい。地域の歴史への思いを深めず、生活感覚から遠く離れた、マスコミが流す時評の洪水に左翼側も巻き込まれて、ひたすら抽象的なスローガンを呪文のごとく唱えて続けてきたことが、現在の単細胞社会を支えていると思うからである。地域史の勉強を行うことの最大の効果は、人々と交わるさいに使う言葉が、生活感覚に満ちた豊かなものになることである。保守化とは、言葉が単細胞化されたことの結果である。この状況を打ち壊す作業が、地域史の発掘である。

2. 単純化された言葉

電車の車内では、半分以上の乗客がスマホの画面に見入っている。本を読んでいる人はほとんどいない。いても、読みやすそうな新書物の類いである。新聞を狭苦しい空間で上手に読むという、つい最近まで見られた車内でのありふれた光景も見かけなくなってしまった。

活字を読む習慣がなくなり、若者の多くが漢字を読めなくなった。語彙が少なくなり、短縮表現が氾濫するようになった。言葉の原義が忘れられ、ムードだけで使われるようになった。「鳥肌が立つ」などはその典型。あるいは、「全然」のように、「まったくその通り」という意味と、「まったく違う」という意味とが、世代間、地域間で異なる。異なるだけではない。会話そのものが少数の語彙で、つまり、文字数に制限のある電報文のような形式で、意志が伝達されるようになった。アニメ動画を主体とするスマホのようなモバイル・メディアの蔓延化がそうした風潮を醸し出したのは間違いない。2、3行のメーッセージが発信され、受け手がそれに納得すると「シェア」という文字で、他人にそれを流し、そうした安直な知識を流布させることが、「拡散」させると表現される。

正確に経験したことを、正確に理解し、正確な言葉で、正確に他人に認識してもらえるように工夫する、という美しい習慣が、周囲から急速になくなってきた。つまり、人々の使う言葉が単純になってしまった。

単純な保守層と、同じく単純な革新層の並列の時代を数十年続けて、人々が悪罵の言葉の応酬を繰り返す中で、言葉のより単純な表現技法を開発した保守層が革新層を叩きのめすことに成功したというのが、現在の保守的先祖帰りの深層だろう。


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