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17:イギリスの労働運動ー新自由主義改革と労働組合<1/2>

同志社大学法学部 教授 力久 昌幸

はじめに

イギリスの労働組合は、政治との関係で一見、相反するような2つの顔を持っている。1つは政治に直
接関与する顔である。よく知られているように、イギリスの労働組合は20世紀初頭の労働党結成に決定的な役割を果たしただけでなく、現在でも労働党と密接な組織的関係を有している。それに対して、もう1つの顔は政治からの関与を拒絶する顔である。イギリスでは労使関係への政治介入を排除する「ヴォランタリズム(voluntarism)」と呼ばれる慣行が根強く見られてきた。

近年のグローバル化とともに新自由主義改革が進展し、その影響が強く見られるイギリスでは、労働
運動がかつてない挑戦にさらされているようである。そこで、イギリスの労働運動の歩みを、政治との関係に注目して簡単に振り返ったうえで、新自由主義改革が進む中で労働組合がどのような対応を見せているのか検討することにしよう。

1. 労働組合と労働党

労働者の相互扶助組織である友愛協会としてスタートしたイギリスの労働組合は、19世紀中頃には主要産業の労働者を組織して影響力を拡大し、労働組合活動に対する法的規制の撤廃を勝ち取ることになった。また、1868年には、労働組合の全国組織としてTUC(労働組合会議)が結成されている。

19世紀後半の選挙法改正によって多くの労働者が選挙権を手にすると、労働組合は労働者の代表
を議会に送り込むことを目ざすようになり、労働者出身議員が誕生するようになった。しかし、彼らの多くは自由党に所属し、いわゆる「自由=労働主義」議員として活動した。それに対して、自由党に依存する「自由=労働主義」に不満を持つ人々の間で、労働者をイギリスの労働運動―新自由主義改革と労働組合を代表する政党を作るべきである、という考え方が力を持つようになった。

TUCの決議に基づいて1900年に開かれた労働組合および社会主義団体の会合において、「労働代表委員会」の結成が合意された。1906年に労働党へ名称を変更する「労働代表委員会」は、組織的には労働組合と社会主義団体によって構成される連合組織であり、党への加盟についてしばらくの間は個人加盟制度がなく、団体加盟制度を前提とする「間接政党」の形態をとっていた。

このような「間接政党」もしくは連合体としての組織構造は、イギリス労働党における労働組合の影響力の強さという顕著な特徴をもたらすことになった。たとえば、かつて労動組合は労働党の党大会において90%以上の票を有していた。つまり、労働党の基本方針について、労働組合が決定権を握る形になっていたのである。また、資金面や選挙運動面でも、労働党における労働組合の存在感は無視できないものがあった。

労働組合と労働党との密接な関係は、時にあつれきを見せながらも1970年代まで維持された。しかしながら、1979年総選挙以降、労働党が総選挙において4回連続の敗北を経験する中で、労働組合との密接な関係が支持拡大の足かせになっているという認識が広がることになった。その結果、1980年代末から労働党に対する労働組合の影響力を削減する組織改革が追求され、1990年代のトニー・ブレアを中心とする改革派、いわゆる「ニュー・レイバー」によって、党大会における労働組合票の比率を50%に削減するなどの改革が実現することになった。

このような組織改革は、1997年総選挙以降の労働党3連勝に一定の貢献をしたと見ることができる一方で、労働組合の間で労働党に対するコミットメントの弱まりをもたらしているようである。現在でも、イギリスの労働組合の約半数は労働党に加盟しているが、いくつかの組合は「ニュー・レイバー」に幻滅して脱退し、残留している組合の中にも労働党に対する資金提供削減に踏み切る動きが見られるようになった。なお、2010年の労働党党首選挙では、「ニュー・レイバー」に批判的な労働組合票が結果を左右する影響を持ったが、その後の改革において党員および公認サポーターによる一人一票制が導入されている。

2. ヴォランタリズム

先述のように、イギリスの労使関係は伝統的に政治介入を排する「ヴォランタリズム」の慣行に基づいていた。世界に先駆けて工業化の道を歩むことになったイギリスでは、経済に対する政治介入を極小化する自由放任(レッセフェール)政策が19世紀中頃に確立するが、その影響は労働政策にも及んでいたのである。また、19世紀後半から20世紀前半にかけて、イギリスは広大な植民地を保有する、いわゆる「大英帝国」を形成することになる。この時期に帝国の恩恵による好ましい経済環境が存在したことは、政治介入を排した労使間の自由な団体交渉によって労働条件を決める「ヴォランタリズム」の慣行を強化することになった。それゆえ、20世紀前半までのイギリスの労働政策は、労働組合の団結権および争議権の法的承認や最低限の安全衛生規制などにとどまり、賃金や労働条件に対する法的規制はほとんど実施されなかった。

1960年代に入ってイギリス経済に停滞傾向が見られるにつれて、「ヴォランタリズム」に基づく労使間の自由な団体交渉が経済パフォーマンスに悪影響を与えているのではないか、という見方が広がることになった。そこで、1960年代のウィルソン労働党政権は、ストライキに対する一定の法的規制を導入する改革を打ち出したが、労働組合の強硬な反対に加えて与党の労働党議員の中にも反対が広がったことから、改革を断念せざるを得なかった。

その後、1970年代初頭のヒース保守党政権は労使関係法を制定して法的規制を導入する一方、法律に基づく所得政策を実施して、ストライキ抑制と賃金抑制をめざした。しかし、法的規制に反発する労働組合との全面対決と1973年の第一次石油ショックによって経済状況が悪化するなか、保守党は総選挙で敗北することになった。

政権に復帰したウィルソンおよびその後任のキャラハン率いる労働党政権は、以前のように労使関係に対する法的規制を導入するのではなく、労働組合との間で「社会契約」を結ぶことになった。この「社会契約」は、組合の側がインフレにつながりかねない過度な賃金要求を控えるのと引き替えに、労働党政権の側がヒース政権下で制定された労使関係法の撤廃と組合が求める福祉政策を実施する、一種のコーポラティズム的枠組であった。

「社会契約」は一定の成功を収め、イギリス経済も落ち着きを取り戻したかに見えたが、賃上げ抑制の継続に対する反発が、1978年末から1979年初頭にかけて「不満の冬」と呼ばれるストライキの爆発的増加をもたらすことになった。死者を埋葬する墓堀人までストライキに参加した「不満の冬」によって権威を失った労働党は総選挙で大敗し、マーガレット・サッチャーの保守党に政権を譲り渡すことになった。


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