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【2012年7月号】1年余経た東日本大震災地で思う

5月17~18日、日本労働ペンクラブ主催の東日本大震災 のその後の状況視察に出かけた。同行は20人余でバス1台 に同乗して、盛岡から三陸海岸に出て、田野畑村から海岸 つたいに途中浄土ヶ浜で1泊、釜石・大船渡・陸前高田・気 仙沼を経て一関に至る厳しい惨害の後をたどるものであった が、途中岩手労働局のご厚意で、岩手労働局・釜石公共職 安・(社)気仙沼復興協会の3カ所でレクチュアを受けてつぶ さにその実態把握に必要なデータの提供と説明を受けた。

17日朝、JR盛岡駅前集合であったので、前日夕刻盛岡に 入って一泊したが、数年ぶりの盛岡の街並みにはもとより 3.11の傷跡等全く見られず、さんざめく大都会の様相を呈し ていた。かつてと比べると地方都市というよりは、新幹線が 入ってからであろうが、駅前が整理され、堂々たる大都市の 風情を持っていたのには驚いた。しかも街中に何と焼肉レスト ランの多いことか、しかも各自七輪が提供されて直接炭火で 焼く味は、われわれ関西の店と異なった風情と味を提供して いるのに感激した。しかもここには今禁止で騒ぎになっている ユッケが桜=馬肉で自由に提供されているのにも驚いた。

10年ばかり前、三陸の鉄道がほぼ開通して観光に便利に なったので、妻と出かけ、仙台から気仙沼を経て遠野・盛岡 に至る旅をしたが、島と岬が入り混じり、三陸鉄道の駅々から 各岬までには距離のある名勝を訪ねたが、その姿は全く変わ らないものの、それぞれの町・村は無残にも流されて、人口 5千程度までは全く家並みが消えてなくなっている状況に直 面した。すでに1年以上経ているので、瓦礫はすべて整理さ れて海岸か山よりにうず高く積まれ、家並みの跡は全く整理 されて更地になり、ところどころ3階か5階の錆びた鉄骨の廃 墟がわずかに人間の棲み家のにおいを留める。それ以外に 人の住んだ跡さえない廃墟が忽然と山と海に挟まれた風光 明媚の空間に現れるという状況に息を飲む。それに壮大な 防潮ダムの残骸が横たわる。また、中天に巨大な船が取り残 され、寸断された鉄道の橋に列車が孤独にたたずみ、駅舎 の残骸が寂しげに人を待つ風情が感じられる。リアス式の天 下の景勝が美しくも無残に横たわる姿は、われわれに何を問 いかけるか。かつて伊達正宗の在世中も大津波があり、彼の 存命中から30年は危険個所に家を建てさせなかったという。 それから何代もそれが繰り返され、危険個所が石碑や記念 碑に明示されているにも関わらず、数10年で忘れられて再 び危険が襲う歴史を繰り返してきた。今回も朝早く沖を見つ める漁師は異変に気づいて船をすべて沖に出して助かって いる。古老の教えを守った保育園長はともかく山に逃げろと いって子供を助けている。それに対して逃げようとする子供 を校庭に集め待機させて皆が犠牲になった校長がいる。歴 史を実感として忘れない教育と、口先での「絆」でなく、風評 に負けず率先して何10年かかるかしれない瓦礫の処理を先ず引き受ける姿勢こそ重要と感じた。 (伴)


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