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【第10回】イタリアの新メディア法(ガスパリ法)を危惧する

はじめに

本コラムの第5回で、イタリアの現首相かつメディア王のベルルスコーニを取り上げたが、イタリアのメディアでは無視できない寡占化の危機が進行しているので、今回も、ベルルスコーニを論じたい。
イタリア上院は2003年7月22日、「テレビ・ラジオ制度再均衡法案」(通称、ガスパリ法案)を賛成多数で可決した。この法案は、ベルルスコーニ現首 相によるメディア支配の強化・拡大を狙ったものものである。下院はすでに同法案を採択しており、上院で施された修正を下院が再度可決すれば、この法案は成 立する。イタリア新聞協会のロンギ事務局長は上院での可決を、「歴史的汚点」と非難した(『読売新聞』2003年7月24日付)。
ガスパリ法案は、デジタル放送などの新たな環境に適応するために、メディアの寡占的経営に対する規制緩和、同一人物がテレビと新聞を同時に所有することを禁じた現行規定の廃止、国営放送RAIの分割、民間資本導入、などを柱としたものである。

ベルルスコーニ首相のメディア支配の強化

同法はイタリア放送界に「メディア王」として君臨する首相にとって、ラジオ、出版など他のメディア分野進出への布石と見られる。
イタリア下院での採決を経て同法が成立すれば、各メディア産業の集中排除規定(株式所有制限)が緩和され、いまですら、国内放送網の9割を実効支配する 首相一族の持ち株会社「メディアセット」(前フィニンベスト)が、他分野のメディア企業を買収・合併してあらゆる分野のメディアを支配することも可能にな る。
首相一族はすでに、保守系大手紙『イル・ジョルナーレ』やイタリア最大の出版社「モンダドーリ」、イタリア最大の発行部数を誇る週刊誌『ソッリーズィ・ エ・カンツォーネ』などを所有している。また、首相と親交のある世界的メディア王、ルパート・マードックがもくろむ、イタリアの有料衛星放送市場への参入 を容易にする狙いもある。
国内の3つの民放ネットを一族で所有する首相は、2001年6月の就任後、国営放送RAIの3局への政治的影響力を確保し、地上波放送のほとんどを手中 に収めた。しかし、現行法により、民放ネットのうち一部の衛星放送化を迫られるなどの制約を受けていた。また首相は、親族に所有させることで『ジョルナー レ』紙を実質的に支配しているが、同法成立後は何の遠慮もなく新聞をも所有できるようになる。
一方、首相は2003年6月、与党連合が安定多数を確保する上下両院で、首相職などの犯罪訴追手続き凍結法を可決させ、自らが被告となった贈賄事件 (1985年)の裁判を停止させた。これを契機に、自らに都合のよい法律改定を進める強引な政治手法に対し、国内外からの反発が本格化するものと予想され る(『毎日新聞』2003年7月24日付)。

選挙に動員されたサッカーチーム、ACミラン

首相がオーナーであるイタリ ア・プロサッカーリーグ、セリエAの名門中の名門チーム、ACミランが、イタリア・ミラノのチームでありながらミランという英語名をもっているのは、 1899年にミラノ在住の英国人が創った「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」が前身だからである。1929年に開始されたセリエAの ACミランはずっとトップ・チームであったが、1980年代、八百長事件で権威が失墜して、落ち目になっていたのをベルルスコーニが1986年に買収し、 世界中から名選手を買いあさって超一流のチームに蘇らせたものである。以後、ACミランは、フィアットに次ぐ巨大民間企業グループ、フィニンベスト(現メ ディアセット)のPR部門となる。民放6局中3局、全国紙2紙、イタリア最大の出版社、広告代理店を傘下にもつフィニンベストのファーストフードチェーン のMOTTAはACミランの胸のロゴマークとなった。
ベルルスコーニの政党「フォルツァ・イタリア」はサッカー応援の掛け声の「イタリア・頑張れ」である。1994年の総選挙では、ミランのファンクラブを 運営するフィニンベスト傘下のPR会社が全国1万3千か所に党支部を設け、チームの人気選手や監督がベルルスコーニの宣伝に駆り出された。選挙期間中、傘 下のテレビは1日何十回となくベルルスコーニのCMを流した。1994年5月、首相指名の信任投票開始早々から、議場とヨーロッパ・チャンピオンカップ放 送中の自社テレビとを往復し、4票差で議会での首相指名を獲得した日、ミランは4対0で優勝した。しかし、周知のように、ベルルスコーニは首相の座につい て2か月足らずで、政権を投げ出さざるをえなかった。しかも、こともあろうに、国連の「組織犯罪に関する国際会議」に出席中の首相が、フィニンベストの不 正疑惑で捜査通告を受けるという国際的な屈辱を演じてしまったのである(脇田康子、http://www.doujinsha.com /post1.htm)。

メディア合戦

2001年5月の総選挙で7年ぶりの復活をかけて、ベルルスコーニはさらにメディア戦争に邁進した。2001年3月に出版されたイタリア紙記者の『金の臭 い――ベルルスコーニの成功の起源と秘密』という20万部を超すベストセラー書で攻撃されたベルルスコーニは、傘下のテレビで自身を美化する「シルビオ・ ベルルスコーニ物語」を茶の間に立て続けに流した。選挙の終盤3月から1か月、ベルルスコーニが傘下のテレビのニュース番組で取り上げられた総時間数は 147分、対する「オリーブの木」の首相候補、ルテッリ前ローマ市長は13分間に過ぎなかった(脇田康子、 http://www.doujinsha.com/sub11-30.htm)。
国営放送RA1は、中道左派で2001年の選挙前に与党だった「オリーブの木」に有利な放送をし、民法3大ネットワークは所有者である中道右派連合「自 由の家」のベルルスコーニに有利な放送をした。たとえば、RAIはベルルスコーニが第一次政権のときに失脚した蓄財疑惑やマフィアとの黒い関係を示唆する 風刺番組を放映した。ベルルスコーニ側は「公共放送の政治的リンチだ」と反論した。イタリア放送監視局は、民放3大ネットワークが1月に放送したニュース 放映時間のうち65%が野党(ベルルスコーニ陣営)に有利な報道であり、与党に触れた報道は21%でしかなかったことを挙げて批判した。またベルルスコー ニは、政権を取ってからは自分に反対の姿勢を示したRAIのジャーナリスト、3人を解雇している(福博充、 http://pweb.sophia.ac.jp/~h-fuku/foreign.journalism.pdf)。

活字離れのイタリア

そもそも、イタリア人はあまり新聞を読まない。イタリアの新聞業界が経営危機に陥った1975年当時、新聞普及率は1千人当たり113部しかなかった。これは当時のヨーロッパの中ではもっとも低い水準であった(福博充、前掲)。最近の日本の若者のように、とにかく活字離れが進んでいたのである。新聞は、なにか別の用事で入った店に置いてあるものを読むという程度であった。
しかも、イタリアの新聞界の特徴は、新聞発行を専門とするプロによって経営されたものではなく、まったくの素人による経営形態にあった。1970年代 は、ミラノ、ローマで発行された共産党系機関紙である『ユニタ』が発行部数45万部で、事実上の全国紙的な役割をはたしていた。しかし、外部産業による新 聞支配の方がより顕著であった。『ラ・ナチオネ』(フィレンチェ)、『イル・レスト・デル・カラリーノ』(ボロニア)、『イル・ジオルナ・デ・イタリ ア』(ローマ)などの新聞は石油・砂糖産業実業家アティリオ・モンティの支配下にあった。『ラ・スタンパ』、『ラ・カゼッタ・デロ・スポルト』(イタリア 最大のスポーツ紙)や名門『コリエレ・デラ・セラ』などは自動車産業フィアット、『イル・メ・セジュロ』は化学工業モンテディルソンの支配下にあった。 1980年代にはリッツオーリ出版社がフィアット社系、大手出版社モンダドーリ・グループがオリベッティ系というような2分化が進行した。そして、 1990年代、メディア市場緩和の流れを受けて、ベルルスコーニが大きな支配力をもつようになったのである(福博充、前掲)。
テレビ写りがよく、そうした映像のプロをスタッフに抱え、国民の関心を常時引く手法に長けた政治家が権力を獲得できる。人々の活字離れは、権力者によ る、そうした情報を通じる民心掌握術を発達させるばかりである。もし、ここに、ベルルスコーニとマードックとの同盟ができれば、イタリアで、完璧な右翼支 配が実現することは必定である。


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