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9:スウェーデンの労働運動ーその実績と試練<1/2>

龍谷大学法学部教授 渡辺 博明

はじめに

スウェーデンの労働運動は、その組織力や社会民 主労働党(以下、社民党)との協力関係を通じて、 直接的な労働条件のみならず、労働市場政策や社会保障政策にも影響を与えながら広く労働者の生活条件を改善してきており、世界で最も成功した事例の一つに数えられよう。しかし、そのような労働運動も、その後の社会経済構造の変化の中で厳しい 試練を受けながら現在に至っている。本稿では、ス ウェーデンの労働運動の歴史を概観した後、現在の状況を、国内の政治情勢と欧州統合の影響に着目して見ていく。

1.組織化と政治的影響力

スウェーデンでは19世紀半ば以降、各地で労働運動が起こり、1998年には社民党の指導の下に労働組合の全国組織LOが結成された。20世紀に入り、森林、鉄鉱石、水力などの資源を生かして工業化が進む中、LOおよび各加盟労組が、その組織力を背景にしばしばストライキに訴え、使用者側もロックアウトで対抗するという大規模な労使紛争につな がっていた。当初は、たとえば1909年のゼネストのように、激しい闘争の末に組合側が敗れて解雇者を出し、組合員の離脱を招くこともあったが、増え続ける産業労働者や自治体職員の組織化を経てLOは 力を強めていった。1930年代に入ると、失業保険の運営に組合が関わる方式(ゲント制)が導入され、失業保険への加入と組合への加入とが事実上重なるようになり、その組織力はさらに増した。

こうした中でスウェーデンの労働運動は、しだいに闘争よりも交渉による労働条件改善を志向するようになり、その力を認めた経営者側にも産業平和を求める気運が高まった。その結果、1938年にLOと経 営者団体中央組織S A Fとの間で協定が結ばれ、 以後、労働者側が経営権を尊重する一方、賃金その他の条件については労使当事者間の交渉によって決めていくことが確認された(サルトシェーバーデン 協定)。

他方で、社会経済的諸政策については、社民党 の長期政権の下で、政・労・使の三者交渉を通じてその基本枠組みが決められる「ネオ・コーポラティズ ム」の傾向が強まった。特に1950年代から60年代 にかけては、三者間で定期的な協議がもたれた他、 政策形成において重要な役割を果たす議会外の調査委員会や、各省庁の下で諸政策の実施にあたる行政委員会に労使の代表が加わる体制が発達した。

またその間、LOと社民党は、前者の議長が後者の意思決定中枢である執行委員会のメンバーを兼ねることが慣例化されており、組織的にも深く結びつ いていた。労働組合としては、1944年に事務労働 者組合の全国組織TCO、1947年に大卒専門職の 中央組織S A C Oも結成されたが、規模の面では産 業労働者を中心としたLOが圧倒的に大きく、その後 もスウェーデンの労働運動はLOを中心に展開された。

2.「レーン=メイドナー・モデル」と経済民主 主義への挑戦

第二次世界大戦の戦禍を免れたスウェーデンは、 1970年代に入るまで比較的安定した経済成長を続 け、その間に基礎的社会保障の確立にとどまらず、 中間層をも含めた多くの人々に権利として社会保障 や社会サービスを提供する普遍主義的福祉国家を 築き上げた。その一方で労働運動は、完全雇用と産 業発展とを同時に実現しようとする独自の戦略を展開していった。それはL Oの2人のエコノミストの名に ちなみ「レーン=メイドナー・モデル」と呼ばれ、「連帯 賃金政策」と「積極的労働市場政策」の組み合わ せからなっていた。前者は主に「同一労働・同一賃 金」の原則を徹底させることであり、後者は生産性 の低い産業部門を保護せずに解体するとともに、その労働力を職業訓練や住宅供給によって支えながら高生産性部門へと移動させ、全体として産業構造 を高度化しながら、雇用を維持し、経済成長を進めようとするものであった。また、小規模開放型のスウェーデン経済にとっては輸出産業の競争力維持 が不可欠であるため、経営者側も、労働条件や社会 保険料負担で譲歩しつつ、連帯賃金政策による賃上げ圧力の抑制を期待することができた。もちろん、 新たな技能の習得を迫られたり、職を求めて転居したりする労働者の負担は小さくなかったし、すべてが 狙いどおりに進んだわけではないが、労働運動が、 高い組織率を背景に政策決定に影響力をもち、かつ、産業発展と雇用・福祉を両立させるための明確な戦略をもって活動していたことは特筆されるべきであろう。

他方、より直接的な労使関係をめぐっては、1960 年代後半にLOと社民党が「産業民主主義」を求めてさらなる攻勢に出た。1972年には「労働者重役法」が成立し、従業員50人以上の企業では2人以 上の重役を労働者から選出することとなった。また、74年には「職場代表法」が制定され、労働者側の代表が参加して労働条件や安全基準等を整備していく体制が確立された。さらに77年には、従来の職 場協議会制度を発展させる形で「共同決定法」が定められ、企業が業務内容を変更する際には、労組から選ばれる従業員代表との間で事前に協議する ことが義務づけられた。

こうして自らの立場を強めていた労働運動が次に 追求したのが、企業の超過利潤に課税してつくった基金によってその株を買い増していき、最終的に経営権をも握ろうとする「労働者基金」の構想であっ た。それは、サルトシェーバーデン協定から共同決定法に至るまで、従来は労働者側が企業の経営権には踏み込まないことを前提としていた点からすると 極めて野心的な試みであったが、その分当然ながら経営者側や右派政党からの激しい反発を招いた。それは数年にわたる論争を経て1982年に一応の 成立を見たが、その内容は当初の意図とは異なり、 経営権の制限という点では実質的な意味をもたないものとなった。この経験は労働運動の限界を示すものともなったが、それでも70年代までのスウェーデンの労働運動は、産業政策全体への影響力の点で大きな成果を残したといえよう。

しかし、1980年代以降は、賃金形成をめぐって産業部門ごとに分離交渉が行われたり、90年代初頭までにS A Fが行政委員会から代表を引き揚げたり するなど、集権的な労使関係に基づくネオ・コーポラ ティズム的体制に変化が生じるとともに、労働運動が社会経済的な影響力を強めてきた流れも反転し始めた。そして、90年代初頭の経済危機を経て完全雇用の維持が難しくなると、ポスト産業化やグローバ ル化というより大きな構造変化の中で、労働運動は厳しい試練を迎えることとなった。


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